たった一度だが、母といっしょの旅をしたことを、かすかに覚えている。四歳になる前だった。母と二人で船や汽車に乗り、宮崎まで行った。
日の当たる縁側で大きな柿をむいてくれた優しいおばさんはだれだったのか、今は聞くすべもない。母はその時、まぶしいように輝いていた。きっと母にとっても大切な旅だったに違いない。くつろぎと豊かさに満ち足りた母の顔が浮かぶだけで、他のことは何も記憶にない。
旅は好きだ。私の母校は鴻之峰小学校。六年生の修学旅行は徒歩の旅だった。種子島の南半分を三日かかって歩いた。鉄砲伝来の碑を門倉崎に訪ね、ポルトガルから鉄砲を伝えた人々を思い、いつの日にかこの海の彼方へと、夢がふくらむのだった。
中学三年の夏休み、修学旅行の途中で帰らされたことを知った兄が、大阪へ呼んでくれた。船に五時間揺られ、鹿児島から急行で十八時間の汽車の旅。楽しかった。二週間の旅はあっと言う間に終わった。鹿児島までは戻ったが、タクシーに乗るお金もない私に、種子島行きの桟橋までは遠かった。歩いてやっと桟橋に着いた時、ボーッと霧笛を鳴らしながら、船は港を離れた。帰りの船賃しかない。船は一日一便だけだ。明日まで待合室にいることもできず、途方に暮れた。
事情を知った九州商船の若い社員、松尾慎吾さんが「俺の下宿へ来い」と旅館に連れていってくれた。夕食後には、磯の海水浴場でいっしょに泳いで、かき氷までおごってくれた。
松尾さんの親切を忘れることができず、三十年後に長崎へ行った時、本社に電話して消息を尋ねた。残念なことに、すでに松尾さんは亡くなっていた。彼の親切に直接感謝できなくて残念だった。
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榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書『天の虫けら』(マルコーシュ・パブリケーション)は、98年に出版された同師の自叙伝。高校生で洗礼を受けてから世界宣教に至るまでの、自身の信仰の歩みを振り返る。(Amazon:天の虫けら)