1945年5月のベルリン包囲戦で自殺したとされるアドルフ・ヒトラーが、時空を超えて現代によみがえった! そして、彼はヒトラーの“物まね芸人”としてテレビやインターネットのSNSで大人気となる。果たしてヒトラーを、世界はどう受け止めるのか?
原作の小説は、2012年にドイツで発売されると、絶賛と非難の両方を呼び、国内で250万部を売り上げ、世界42の言語に翻訳されたという(日本では2014年に発売)。日本でも、公開されてから話題を呼んでいるコメディー映画だ。
この映画がリアルなのは、現代によみがえったヒトラーが、最初は社会の変化やパソコンを見ていちいち驚いているのだが、すぐに使い方を覚えるところだ。そして、テレビに出ていくうちに“面白いやつだ”と反響を呼び、フェイスブックやツイッターで拡散し、大変な話題となる。さらにその影響力を学び、インターネットやSNSを使いこなすヒトラー! 実に現代的だ。
最大の見どころは、ヒトラーがテレビの観客参加型の人気トーク番組に出演するシーン。割れんばかりの拍手で迎えられ、ステージに登場したヒトラーは、マイクの前に立ち、しばらくは何もしゃべらず立ち尽くす。
あまりに長い沈黙に、ホストの司会者も会場の観客も不安になり、スタジオは沈黙する。全員が不安になり出したころ、“あの”ヒトラー流のスピーチを始めるのだ。
「テレビは俗悪だ」
「この社会をなんとかしなければならない!」
観客は引き込まれ、歓声と拍手の嵐となり、ヒトラーはドイツ中に知られる人気者となる。
テレビやテレビマンが一番恐れるのは「沈黙」や「空白」だ。放送事故が最も怖いからだ。それを逆手にとって見ている者の気持ちを見事につかむさまは、役柄とはいえ本物のヒトラーの演説術や人心掌握術を見事に表現していて、本当にうまいシーンだ。
人気者となったヒトラーは、現代のドイツ各地を訪ねる。このシーンでは、実際に役者とカメラマンがドイツ各地で一般の人々と会い、話す様子をドキュメンタリータッチで撮影している。スマホで一緒にならんで満面の笑顔で一緒に写真を撮る若者、拍手する人、「愛しているわ」と言ってハグする美女。そして「私は差別主義者ではないが、外国人は多すぎる、排斥するべきだ」と飲み屋で語る人々。
これらのシーンの撮影では、俳優が襲われる危険を考えてボディーガードをつけていたそうだが、実際はどこでも人だかりができるほどの大人気で、ロケの間に2万5千回も“自撮り”されたとか・・・。
「20世紀で最も有名で誰でも知っているあのヒトラーのそっくりさん」であるが故に、人々はむしろ「つくりもの」と安心して笑顔になり、油断してついつい本音を語る。このあたりは、見ていて考えさせられるものがある。
さらにヒトラーは現代のドイツの極右組織の本部まで訪問し、本物の極右の党首相手に「全然なってない!」「もっと頑張れ!」と説教する。このあたりは、正直笑っていいのか、どうしていいのか、なかなか考えさせられた。
私たちが歴史の教科書で学ぶのは、「過去にいた“大悪人”ヒトラー」という、現代から評価が決定的に定まった「知識」でしかない。しかし、1920年代の社会不安の時代に生きていた人からすると、ヒトラーは確かに“ある種の”人間的魅力や愛嬌があり、気さくで本音で話せる面白いやつ、あるいは頼りになる政治家として感じられていたのかもしれない、と不思議な説得力を実感してしまう。
いわば、「過去の時代の空気」を現代で“追体験ごっこ”できるのだ。その意味でこのセミドキュメンタリーシーンは極めて秀逸な仕掛けといえるだろう。
毎週のように発生する大規模テロなど、世界が激変し、不安に覆われている現代は、また当時に似通い始めている。そして、その姿はやはり米国大統領選のドナルド・トランプ氏を重ね合わさずにはいられなくなってくる。そのあたりから、コメディーがにわかにリアルなホラーのように見えてきて、背筋が寒くなる・・・。
しかし、テレビやSNSで大人気となったヒトラーは、あるちょっとした事件がきっかけで一気に悪者となり、世間から今度は大バッシングを受けることになる。しかし、ヒトラーは見事にそれを乗り越えて「復活する」。このあたりのストーリー展開も見事だ。
日本でも日々、芸能人や政治家など、著名人のスキャンダルが報じられている。有名人である以上、スキャンダルは避けられない。その時いかに謝罪し、イメージ悪化を最小限に抑えるかのダメコン(ダメージ・コントロール)が大事となる。
しかし、過激な発言を芸風にしている人物は、スキャンダルが重なっても、大衆は次第に慣れてしまい“普通のこと”となってしまう。そうなればシメタものだ。(日本の元大阪市長や元東京都知事がそうであるように・・・)
一度大失敗し、そこから学び復活したポピュリストは、そう簡単には消え去らない。その一言一句をメディアは追い、世間は注目するようになる。それをさらにメディアは追う。このあたりのメディアの力学が見事に描かれていて興味深い。
しかも、よくよく考えれば現代のテレビやメディアの宣伝広告手法の源流は、あの時代の本物のヒトラーと天才的な宣伝大臣だったゲッペルスなどが用いた手法なのだから、またまた考えさせられてしまうというものだ。
コメディーとしても、ヒトラーが現代のドイツのキリスト教民主同盟も社会民主党も厳しく批判しながら、支持するのは緑の党(!)だったり、視聴率のためにヒトラーを大プッシュするテレビ局のやり手女性局長に「君はリーヘン・シュタール(「意志の勝利」などのナチスのプロパガンダ映画を作った天才女性監督)を思い起こさせる」と言ったり、「ヒトラー最後の12日間」のパロディーシーンがあったり、と盛りだくさんのギャグは、なかなか芸が細かくにやりとさせられる。(ちなみにもう1人の主人公であるヒトラーを見つけたテレビマン、サヴァツキ役のフェビアン・ブッシュは、あの映画にも中佐役で出演していた)
ちなみに個人的には、売れないフリーランスのテレビマンだったのが、ヒトラーを見つけて一山当てて売れっ子になったもう1人の主人公に、売れないフリーランスのキリスト教ライターであるわが身はとっても感情移入してしまった(笑)。日本にも帰ってきた東條英機や石原莞爾が現れて、私も一山当てられないだろうか・・・。
という冗談は抜きにして(笑)イタリアではムッソリーニを主人公にしたリメイク作品が決まっているという。
確かに笑いつつも怖い映画ではある。でも歴史上の人物を現代にコメディーとして描くというのは、やはり歴史というものに対する「ある種の成熟した視点」を感じさせられる。
日本でこの手の映画を思いつかない。そして政治はフィクション以上にヒトラーの時代のように“劇場化”していく。やはり、日本のその現実のほうがずっと怖い、のかもしれない。
■ 映画「帰ってきたヒトラー」予告編