8月25日(木曜) 得し幸は、刻まる負い目ぞ、草萌えど
一九四九年、終戦の僅か四年後、東京は焼け野原で、食べる物も無く、お腹がすいていました。その頃、「灯会」の文集にこんな事を書かれた方がいます。これを書いた方(友人、川合万理子さん)は、当時21歳の女性であって、あの焼け跡時代の青春を、一生懸命に生きたクリスチャンの一人です。許されて以下に記します。
「『得し幸は、刻まる負い目ぞ、草萌えど』いつも人には美しい物語をお聞かせしたいと思っています。でも実際に与えられているのは、夢見る様な美しいものではありません。私は、愛の三年の歴史を経て、繰り返す日々の間に、つまずき、痛みながらも、抱いて離さぬものこそ、真の愛であると思う様になりました。クリスマス・ツリーの飾られたポルカで、初めて彼(川合友之さん)と二人きりで語った夜、私は、『もし神と愛する人とのどちらかを選ぶとしたら、信仰を選びます』と語っていました。彼は信仰者ではありませんでした。そしてこの時私は、信仰者である事を誇りと思っていました。私の夢は、愛し合う者の一致点に、神がいて下さるという事でした。こんな私に彼は歌を詠みました。『青蔦や、女の知性に愛なくて』−−私は人の心を休ませない性の女でした。素直に愛を受け、ささやき、喜ばす事の出来ない者でした。私は洗礼を受けて教会に通う自分に、信仰者としての悦びと誇りを持っていました。そんな私にとって、生涯かけて愛したい人が信仰者でない事は、耐えられない事でした。私は彼に同じ道を強いて焦っていました。木枯らし吹く宵毎に、私達は語り合い、お互いの本当の心を求め合って、あてどなく歩きました。『肌寒のネオンに慕情おののきて』。一年後のクリスマスにこんな手紙が彼から届きました。『今夜は本当に心満ちたクリスマスイブを過ごしています。この夕方が聖いとは、僕には納得出来ないけれど、でもとても暖かいものであることを感謝しています。イエス・キリストの人格に惹かれています。キリストは強さの中に、この上ない暖かさを含んでいる事を感じて、たまらなく好きなのです』。嬉しかったこのお手紙を、私は抱いて眠りました。 今年も春がめぐって来ました。透明でありたい、清らかでありたい、近づけば己が恥じられる程純粋な交わりが欲しい、そう願いながら、あり得ない私。それでも私はまだ自分が強いと思っておりました。世間並みの恋はしたくありませんでした。愛する人を全面的に理解しようとして、心のごく細かな動きにも二人にずれを見出します。個性と個性との間の垣根は越え難いものの様に思えました。そんな時、必ず心に浮かぶのは、私達は信仰を異にして、確かな一致点が無いのだという事でした。互いに心も病み、いさかいも致しました。でもそれらが波立つたびに、砕かれたる魂の弱さこそ信仰であるとの思いが理解されて参りました。−−未信者の彼の傍らに祈りつつ生きる私のある事も、また神様の御心ではないでしょうか。『負い来たしじゅう字架に、今や椅るべし菫の野』『得し幸は、刻まる負い目ぞ、草萌えど』」
それから40年あまりの歳月が経過しました。このお二人は間もなく結婚して結ばれ、子供を産み、仲良く教会に通いました。