福音書は、弟子たちが自ら語った体験談
私たちは、誰かと一緒に感動した体験は、振り返ってお互いに語り合うことがあります。また、素晴らしい出来事は、多くの人たちがその体験談に耳を傾けます。2千年前も、そうだったのでしょう。
「そういえば、あの時、俺はどうなるかと思ったよ。ほら、ガリラヤ湖で嵐に遭ったときさ」
「あぁ、あの時は、俺も正直言って死ぬんじゃないかと思ったよ。あんな嵐は、長い間漁師をしていて初めてだった。俺たちの舟に、もう水がどんどん入ってきて、沈みそうだったからな」
「今振り返れば、俺はあの時は、神様のことなんて本当は信じていなかったよ。だいぶ後になってから分かったんだ。君はどう思った?」
「俺もだよ。あの時は、なんとか舟が沈まないようにってことしか考えられなかったよ。でもイエス様はあの時、あんなに揺れて、あんなに水が入り込んでいたのに、寝てたよな」
「そうだよ、寝てた、後ろの方でぐっすり寝てた」
「俺は目を疑ったよ。どうしてこんな時に寝ていられるんだってね。最初はイエス様も疲れてるんだろうからそのままにしておこうと思ったけれど、いよいよ舟が沈むかもって思ったときは、俺たち必死なのに寝続けてるもんだから、だんだん腹が立ってきて『先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか』って、水をかき出しながら大声で叫んじゃったよ」
「だからさ、あれには本当にびっくりしたね。イエス様が起き上がって『黙れ、静まれ』って叫ばれたとき、一瞬で嵐が静まっちゃったもんな」
「こんな感じでさ。ゆっくり起き上がって、全然慌てず、こうして足を踏ん張って、湖に向かって大きな声で『黙れー』『静まれー』って」
「あれって、ただ叫んでたんじゃないような気がするなぁ」
「うん、何か叱っているような言い方だった」
「それって、湖とか風に叱るのか?」
「あれはイエス様が叱られたんだ。万物の支配者だからできるんだよ。エジプト脱出の時、海の水が分かれたときみたいにね」
「すごかったなぁ」
「すごかったねー」
「あの時は、ただびっくりしてしまって、どうしてこうなったんだって思った。それと『先生』って呼んでたけど、違う、ただの人間じゃない、イエス様って誰だって思わされたよ」
「あの時は、嵐がなくなって『助かったー』って安心したけど、イエス様って、人間ではないって思うようになって、なんだかすごく怖くなったよ」
これは、マルコの福音書4章35~41節より、私の勝手な想像ですが、イエスの弟子たちは、こんなふうにイエスと旅を続けたときのことを思い出して、フレンドリーに語り合ったのではないかと思います。
いろんな所で、いろんな時に、いろんな人に話していった
イエスと共に活動したいろいろな場面を思い出し、ある時は自宅で、ある時は招かれた食事の席で、ある時は道を歩きながら、ある時は大勢の人たちの前で、ある時は夕食後に、ある時は朝の祈りの後で、自分たちの体験を話し合ったのでしょう。
数年間の数々の出来事を、最初はお互いが確認し合うように。そして、イエスの教えと教訓を大切に守っていくために。やがて間もなく、聞きに来た人々に語り出したと思われます。
注目したいこと
そこで、その話した内容にも注目したいと思います。それは、自分たちが恐れた気持ち、腹が立った経緯やその時の感情、全てを支配する神の存在を見失っていたこと、神に信頼する信仰心がなかったこと、イエスの放った一言で嵐が静まったときの驚き、その時どんなふうに恐れたのか、などが書き記されていることです。彼らは身振り手振りで話し続けたのでしょう。
その場に、マタイやマルコ、ルカやヨハネが居合わせ、彼らはやがて、この出来事を書き留める決心をしたのだと思います。
題材にさせていただいたマルコの福音書4章35~41節です。
さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」(マルコの福音書4章35~41節)
福音書には、弟子たちや登場人物の喜怒哀楽まで書き込まれています。ということは、体験者は自分の感情もたくさん話したのでしょう。喜んだこと、うれしかったこと、悲しんだこと、不安だったこと、恐れたことなど。
神が意図された福音書の在り方
このような福音書は、彼らが書き留める以前から、神が意図しておられました。福音書からは、初代教会が誕生した頃の彼らの関係性までも、今日の私たちにも見えるように、神は意図して描かせていたのではないでしょうか。
福音書は、読み方によって、弟子たちや登場人物の告白として読んでみると、読んでいて自分の気持ちと共通するところを発見することも多くなるかもしれません。
それは私たちに慰めや励ましを与えてくれることでしょう。また、私たちの身近な人たちとの会話の在り方の良いお手本でもあるのでしょう。
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