一つの部分が苦しめば全てが苦しむ体
互いに優劣を競い争い合ったキリストの弟子たちが、「互いに愛し合う」関係を築くために、神は、イエス・キリストが十字架にかかられる受難の一週間と、その後のキリストの復活の期間を用い、彼らの関係性を劇的に変えていかれ、初代の教会が誕生していきました。
この度も、その軌跡を追っていきましょう。これは、今日、私たちの人間関係にも深く関わっていくことだからです。
前回の続きです。
新しい関係へと変えられた弟子たちは、以前よりも会話がはずみ、心も通い合うようになり、「お互いをより広く深く理解し合う」ようになりました。情報の交換が質的にも量的にも、豊かになっていきました。
この関係は、これから始まる教会の宣教活動にこそ、必須のものでした。
パウロは教会を「あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体(器官)である」(Ⅰコリント12:27、口語訳)と表現しました。
神は人の体を多くの器官によって創造されました。けれども多くの器官があるだけでは、体は機能しません。この各器官は、お互い膨大なシグナル(信号)・情報が行き交うことによって初めて機能します。
新薬開発のための研究現場の前線は、無数ともいえる未知の体内シグナルとその固有の働きを探し分けることです。
人の体同様、教会も多種多様な賜物が一人一人に与えられた多種多様な人々の集まり・共同体です。けれども集まっただけでは、お互いの賜物を理解し生かし合うことも「キリストのからだ」が機能することもありません。
シグナル・情報の交換、つまりお互いを深く理解し合える関係性、交わりの時間、グループがより必要なのです。ペテロの正直な告白は、相互理解が深まる関係性に発展し、やがて教会で発生する問題に協力して対応し、それまでお互い潜在的であった賜物さえも発掘され、地方の教会が直面する課題も速やかに伝えられ、これへの対応能力も備わっていきました。
交わりの豊かさは、初代教会が多種多様な働きを活発化させていくことにつながりました。それは「キリストのからだ」が機能していったことを意味します。
関係性が豊かになれば、創造的な奉仕や宣教活動も生まれていくことでしょう。
「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶ」(Ⅰコリント12:26)
そのようなグループ・教会を目指していきましょう。
【祈り】 神様、あなたの多種多様な宣教活動のために、私たちをささげます。整え用いてください。
【関連聖書箇所】Ⅰコリント12:12~27
ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。
確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。
それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、
かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
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