互いに優劣を競い争い合ったキリストの弟子たちが、「互いに愛し合う」関係を築くために、神は、イエス・キリストが十字架にかかられる受難の一週間と、その後のキリストの復活の期間を用い、彼らの関係性を劇的に変えていかれ、初代の教会が誕生していきました。
このたびも、その軌跡を追っていきましょう。これは、今日、私たちの人間関係にも深く関わっていくことだからです。
前回の続きです。
キリストの受難と復活は、人知を超えた神の力、神の知恵、神の愛が現されたときでした。人類を罪の滅びから救う救済の業であると同時に、「互いに愛し合う」教会を生み出すために、主の前から逃げ出し、三度否んだ出来事を、主は巧みに用いられました。
これはペテロたちにとって、大きな大きな驚きでした。彼らの心の中に「主は、すごい。素晴らしい」という感動が沸き起こりました。これを「賛美」といいます。
アブラハム夫妻に子が産まれたとき、紅海の海が分かれたとき、エリコの城壁が崩されたとき、ダビデがゴリアテを一撃で倒したとき、網を下したら大漁だったとき、主が復活されたとき、皆、感動に包まれ主を賛美しました。
これらは全て、人間の知恵や力や愛情ではどうすることもできないときに起こりました。そこに神が働かれることを「神の栄光が現れる」といいます。
競い合い、言い争うことが絶えなかった弟子たちが、「互いに愛し合う」関係になっていったことも、まさしく「神の栄光」が現されたことです。「神の栄光」のために、主は、争い合っていた彼らを用い、争い合っていた人間関係を用いられました。
この神の働きは、今日も続いています。かつて、弟子たちが役に立たないと思った五つのパンを、イエスは父なる神様に差し出し、祝福を祈り求めました。そうすると、多くの人たちのために、そのパンが用いられました。
同じように私たちも、自分の弱さや愚かさ、自分が役に立たないと思ったり、不安な問題があれば、気まずい人間関係があれば、そのままにしたり、諦めるのではなく、自分の考えた願いを押し通すのでもなく、それらのことを具体的に、愛と知恵と力に満ちた神様の前に差し出し「主よ、あなたが栄光を受けるために用いてください」と祈ることです。
そして、人知を超えた神の働きに期待することです。これを「神の栄光のために生きる」といいます。
「すべてわが名をもってとなえられる者をこさせよ。わたしは彼らをわが栄光のために創造し、これを造り、これを仕立てた」(イザヤ43:7)
【祈り】 神様、私の弱さや愚かさも神の栄光のために、同じような悩みを持つ人々のために用いてください。
【関連聖書箇所】ヨハネ17:1~11
イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。
それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。
わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。
いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。
それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。
わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。
わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。
わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。
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