「ひかりごけ」というコケの一種をご覧になったことがありますか。私は、浅間山の鬼押出しという火山の噴火で、溶岩の固まった岩山の片隅の奥の方に「ひかりごけ」を見ることができました。
岩穴の暗い所で青く金色に輝くコケを見たときは興奮しました。なぜかというと、以前、武田泰淳という作家が書いた『ひかりごけ』という短編小説に深く引かれたことがあったからです。
この小説は、実際に起きた事件を元に書かれた小説です。1943(昭和18)年12月、根室沖を出帆して知床経由、小樽に向かった陸軍徴用の漁船団の1隻が難破して、知床半島の羅臼の海岸に打ち上げられたのは4人でした。
極寒と疲労と飢えの中に60日、ただ1人生き残った船長に、人肉を食った疑いがかけられたのです。やがて裁判が開始され、峻烈きわまる検事の論告が続きます。
作品の終わり近く、船長はまことに奇妙な発言をします。人肉を食べたものは、首の後ろに光の輪ができるのだと言う。その輪は、人肉を食ったものには決して見えないのだとも言うのです。
「私には光の輪が付いているのです。それが目印なのです。あなた方には見えるはずなんですよ。よく見てください。もっと近くに寄って、よく見てください」と、船長はしきりに問い掛けます。
しかし、検事にも、弁護士にも、裁判長にも、傍聴席の男女にも何も見えない。見えないばかりか、それら全ての人の首に妖しい光の輪がともっているのです。むろん、それも見えないのです。
「見えない。見えない」。群衆は立ち上がり、蒼然(そうぜん)たるうちに幕が下りる。そういった小説です。
人が人を裁くことができるのか、ということを鋭く世に問うた作品であります。もし自分があの船長の立場であったら、人肉を食べていなかったと断言できるだろうか。
人が極限状況に置かれたときに、何をする可能性を秘めているかという深い自覚を持たない人が、他の人を高い所から裁くことの愚かさを、泰淳は指摘したのでしょう。光の輪は知床半島の天然記念物「ひかりごけ」のように光っていたというのです。
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