二学期になったある日、講義に来ていた牧師が、「榮牧師、アフリカへ行きませんか?」と誘ってくれた。私はためらわずに「行きます」と答えた。あまりにも早い決断に、彼は慌てて、「榮牧師、航空運賃もホテルも食事も全部自己負担ですよ。ケニアの教会は弱いので、謝礼も何も出ません。それに英語で説教しなければなりません。向こうは英語とスワヒリ語の二重言語ですから、日本語を英語にして、スワヒリにしていると説教になりませんから」と話してくれた。それでも私の決断は変わらなかった。
現地で待ち合わせてくれるとのことだったが、一人のケニア行きは大変だった。キャセイ航空でバンコクへ行き、そこで十二時間もウエイト。パキスタン航空に乗り換え、カラチへ。そこでもまた狭い待合室でさらに九時間のウエイト。やっとのことでナイロビに着いた。往路だけで丸一日半もの長旅だった。
空港ではジョン・ドロー牧師が迎えてくれた。ホテルへ案内してくれるというので、思ったより待遇がいいなと安心したのも束の間、ホテルに着いて驚いた。ネズミが走り回り、ゴキブリがベッドの上に落ちてくる。深夜まで嬌声や怒声が響き、今までで一番ひどい宿泊だった。
翌朝は早く起こされ、これからタクシーでキスムまで行くとのこと。七時間もタクシーを奮発するとはすごいと喜んだ。タクシー乗り場に行くと、ここがあなたの席だと言う。何と座席と座席の間だ。両側には大きなケニア人が座り、五人乗りの車に九人も乗り込む。もう少しで「私は歩いていきます」と言いたくなった。聖書には「すべての事について感謝しなさい」(Iテサロニケ5:19)とあるが、これは聞きしにまさるひどさだと思いつつ、タクシーの客となった。しかも当時のケニアの道路事情はすこぶる悪く、でこぼこ道をフルスピードで走るので、お尻が割れそうに痛い。両側からは押しつけられ、きつい匂いに車酔いが重なり、おおげさに言えば死にそうな思いをした最初のケニアだった。
やっとの思いでキスムに到着。ナイロビでの経験に懲りていたので、せめて一番良いホテルに泊まろうと思った。キスムで一番良いホテルは、インペリアルというホテルだった。生ぬるいお湯が出る。何年も経ってから気づいたが、このあたりは気候が良いので、熱いお湯でシャワーをする習慣はなく、ホテルのお湯も生ぬるいのだと言う。ほんとかなと思ったが、郷に入らば郷に従えである。もう十年もケニア通いを続けているが、その都度インペリアル・ホテルに泊まって、生ぬるいシャワーを浴びている。
キスムでの最初のスケジュールは、赤道直下のトタン屋根の教会で、二〇〇人もの牧師が集まるセミナーだった。二十四時間歩いて来たとか、三日間かかったとか、牧師たちは平気な顔で話してくれた。いつの間にか、ぬるま湯につかったようになっていた自分を情けなく思った。
もう一ヵ所でのセミナーは、モーリス・アラオ牧師の生家で行なわれた。父親は有名な魔術師で、一夫多妻の国ならではのことだが、妻が二十六人もいた。息子が救われて牧師になり、そんな父親も救われていた。私は子どもたちとケニアの村の家々を訪ね、「ジャンボ、ジャンボ」とスワヒリ語であいさつして回った。
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榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書『天の虫けら』(マルコーシュ・パブリケーション)は、98年に出版された同師の自叙伝。高校生で洗礼を受けてから世界宣教に至るまでの、自身の信仰の歩みを振り返る。(Amazon:天の虫けら)