キリスト教はどうして教派が多いのか。
キリスト教を標榜(ひょうぼう)するグループがキリスト教だといえるには、キリスト教の基本部分を保持していることが必要です。それ以外の部分はある意味で自由であるといえます。
基本部分は古代の公同信条〔ニカイア信条、カルケドン信条、使徒信条など〕によって明確化されている三位一体説、キリストの二性一人格などで、これが異教や異端から区別する重要な基準となっています。(ただし、単性論キリスト教やネストリウス派キリスト教は違いが大きくないとされ、キリスト教の枠内で捉えるのが妥当です)
なお、基本部分を信じる信じ方にも、多少の角度の違いや力点の置き方の違いがありますし、まして自由事項や付随的な事柄には多くの違いが出てきます。例えば、次のような事項にはさまざまな立場があり得ます。
・信仰における人間の意思の自由をどのように受け止めるか
・幼児に洗礼を授けるか ・洗礼の方式は浸礼か滴礼か
・教会政治の在り方は監督主義か、長老主義か、会衆主義か
・賛美の仕方はどのようなものか ・契約神学に立つか否か
・癒やしをどの程度強調するのか ・異言を用いるか否か
・聖書の高等批評を受け入れるか否か ・進化論にどう向き合うか
・海外ミッションと関わりがあるか ・地域の違い ・民族の違い
・過去の歩みの違い ・この世の戦争に対する姿勢
・千年王国をどう捉えるか ・聖職者の在り方 などなど
これらの違い、組み合わせの違いなどによって、いつの間にか数百の教派が生じたわけです。でも、これらが全て敵対しているわけでもありません。便宜的に別のグループになっているにすぎない場合が多いのです。別のグループになっても協力できることは協力し、教派を超えて提携あるいは事業実施している場合も多いのです。
また、教派、教会に分かれていることは、必ずしもマイナス要素ばかりでなく、多様性というプラスの要素もあります。さらに、ある教派、教会が自分の好みや体質に合わない人が、そこでじっと我慢し続ける必要はなく、別の教派、教会に移っていけるというメリットもあるのです。
いずれにせよ、キリスト教は聖書に基づかなければなりません。近世の宗教改革において聖書主義が明確に位置づけられてからは、聖書が信仰と生活の最終的基準なのです。どんなに伝統ある教会とか、隆盛している教会といっても、聖書に反するものがあってはキリスト教とはいえないのです。逆に、伝統的スタイルをとってなくても聖書にあることを信じ、聖書の教えに従おうとしているグループはキリスト教といえるでしょう。外延的、付随的事柄は自由なのです(キリストの名をおとしめることにならない限り)。
この自由さの中から、歴史上新しい教派、教会が次々と生まれ、それらが積もり積もって、現代のたくさんの教派・教会となったのです。従って、教派が多いことは、いわば聖書をしっかり見つめて努力した結果なのだ、という面もあるでしょう。
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