「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)
「人生とはクレジットカードのようなものである」。その心は「自分の好きなように使えますが、最後に清算しなければならない」ということです。
ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』という書物があります。原題は『ある心理学者の強制収容所の体験記録』となっています。文字どおり地獄のようなナチス・ドイツによる強制収容所を生き抜くことのできた一人の精神科医の体験です。
フランクルが送り込まれたアウシュヴィッツのユダヤ人強制収容所では、総計150万人のユダヤ人が殺されました。フランクルは収容所生活という極限状態に置かれた人間が、どのような心理的反応をしていくのかを、深い洞察をもって描いています。
「人間は、強制収容所という強制的にある状況に入れられることによって、自分らしく生きることを制限されるのか」という問いに対して、フランクルは「否」と答えます。人間は外的状況に支配されないというのです。なぜなら人間は、自分の自由が極めて制限された状況の中にあっても選択することが可能なのです。すなわち、典型的な囚人になってあたかも獣のような存在になりさがるか、それともなお、人間として踏み止どまり、人間としての尊厳をもって生き、そして死ぬか、ということです。
フランクル自身は、身体的にもひ弱でした。先輩の囚人から「今度の新入りの中で誰か死ぬものがいるとしたら、まず君だろう」と言われました。
そのフランクルが最後まで生き抜くことのできた秘密が何であったのか。フランクルは「苦悩を積極的に引き受け、人生の意味をあくまで問い続けるたくましい精神の持ち主のみが、この地獄の生活を最後まで生き抜くことができた」と言います。
ある時、こんなことがあったそうです。昼間の労働に疲れ、しかも懲罰のために1日絶食させられた囚人たちが、バラックの中にたむろしている。おまけに悪いことには急に停電して真っ暗闇になってしまう。囚人たちの不平・不満は、もはや最高潮に達した。そのような囚人仲間に対してフランクルは、静かに生きる意味を失わないようにと語り掛けるのです。そして電灯が再びともったとき、フランクルが見たものは、目に涙をいっぱい溜めた仲間の囚人が彼に感謝の言葉を告げるために、よろめきながら近づいてくる姿でした。
このようにフランクルは囚人の仲間に、人間として、医師として、精神科医として接することに努めています。そして、この他者に対する愛の奉仕こそが、かえって彼を奇跡的に死の運命から救ったのです。
このように自分の人生に何かの目的や意味を発見することが、生きていく力の源となるのです。逆に自分の人生に、目的や意味を失うとき、その人の心は力を失ってしまうのです。
フランクルは人生の意味についての問い掛けをめぐって、コペルニクス的転回が必要であると説いています。すなわち「人生から何をわれわれは、まだ期待できるかが問題ではない、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである」と言います。つまり私の人生は私に何を将来提供してくれるであろうか、という受身の姿勢から、人生から私は何を問われているのかという主体的な姿勢へと転回しなければならないのです。
フランクルは別の書物では、この「人生からの問い」を「神からの問い」というようにも表現しています。私たちの人生は結局、神から与えられた人生をどう生きるかということにかかっています。それは、私たち一人一人が、神から与えられた使命を果たすこと、日々の務めを行う責任を引き受けることにほかならないのです。
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