2002年にグアテマラの首都グアテマラ市で世界神学会議が行われました。世界から約300人の神学教育に携わっている人々が集まり、会議を行いました。グアテマラは南北アメリカのちょうど真ん中にある国で、近くにパナマとかニカラグアといった国々があります。
写真は、グアテマラの観光名所で、古い石畳の街を復元した場所です。外からはあまり魅力的な感じはしませんが、一歩中に入ると各家には素晴らしい中庭があり、色とりどりの花や木で飾ってあります。
参加者は一つの神学校のキャンパスを使って一週間ほど神学会議を行いました。私も論文を発題しました。
私の場合はアジアの視点からキリスト教の神学を考えてみようというもので、従来の西洋型の神学とは少し違う視点から発題してみました。これは私自身が西洋の神学を長い間学んできたことと、日本で宣教をしてきた結果、アジアの神学者やクリスチャンの信仰の捉え方にそれぞれ特徴があると感じてきたためです。
特にキリストについての理解が、微妙に強調点が異なっているように思うのです。ごく大雑把に言いますと、西洋の神学では、キリストは罪と死に対して勝利された、「勝利の主」という点が強調されるのですが、アジアの場合は、キリストは人間の痛みや弱さに寄り添って、私たちの傍らに共に歩んでいてくださる主、「傍らにおられる主」という点が強調されているように感じてきています。
これは、例えば日本人のキリスト教の代表的な作家である遠藤周作の『沈黙』とか、神学者の北森嘉蔵の『神の痛みの神学』とか、C・S・ソンという台湾の神学者の『共感される神』とか、数多くのアジアの神学者やクリスチャンの信仰の捉え方、聖書の読み方を見てみると明らかになってくると思います。
そういった点が従来の西洋神学には見られることは見られるのですが、アジアと比べて少ないように感じてきました。そういったことを発題したところ、かなりの反響をいただきました。どちらが正しいかではなくて、どちらも聖書の中にある真理であって、私たちはより深く広く聖書を理解する必要があるのでしょう。
◇
福江等(ふくえ・ひとし)
1947年、香川県生まれ。1966年、上智大学文学部英文科に入学。1984年、ボストン大学大学院卒、神学博士号修得。1973年、高知加賀野井キリスト教会創立。2001年(フィリピン)アジア・パシフィック・ナザレン神学大学院教授、学長。現在、高知加賀野井キリスト教会牧師、高知刑務所教誨師、高知県立大学非常勤講師。著書に『主が聖であられるように』(訳書)、『聖化の説教[旧約篇Ⅱ]―牧師17人が語るホーリネスの恵み』(共著)など。