ヨハネ第三書も、ヨハネ第二書と同様、普段はほとんど説教されることも、学ばれることもありません。しかし、ヨハネ第一書を学んできた勢いで、第二書に続いて第三書も学ぶことにします。
第三書は、「愛されているガイオ」と呼ばれる特定の個人に送られた手紙です。この手紙を書いている「長老」は、ガイオに対し「私はあなたをほんとうに愛しています」と言い(1節)、さらに3節で、ガイオのことを「兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいるその真実を証言してくれるので、私は非常に喜んでいます」と記しています。ガイオが「真理に歩んでいる」ことが確かであり真実であることを、長老は非常に喜んでいるのです。その「真理に歩んでいる」ことに焦点を合わせて、この短い手紙を学んでまいりましょう。
3節冒頭に「兄弟たちがやって来て」とある「兄弟たち」とは、5節に「旅をしているあの兄弟たち」と言われる「兄弟たち」のことで、当時の巡回伝道者たちのことを指しています。この手紙が書かれた1世紀の終わり頃、各地を巡回しながら福音を伝える人々が多くいたのです。そのような巡回伝道者である「兄弟たち」が、本書の著者のところに立ち寄り、ガイオのことを証言してくれたのでしょう。ガイオは巡回伝道者たちのため自宅を宿として提供すると共に、彼らを手厚くもてなしていたものと思われます。
著者は6節後半に、「あなたが神にふさわしいしかたで彼らを次の旅に送り出してくれるなら、それはりっぱなことです」と書いています。ガイオは巡回伝道者たちを「神にふさわしいしかたで」送り出していたのでしょう。この「神にふさわしいしかた」とは、どんなことか。神は私たちの必要をすべてご存じで、私たちの必要を満たしてくださいます。その「神にふさわしいしかたで」と言うからには、ガイオは巡回伝道者たちが次の旅で不自由しないように、[経済的支援を惜しむことなく]至れり尽くせりの配慮をして送り出していたのではないでしょうか。
そうしたことが、6節前半で「彼らは教会の集まりであなたの愛についてあかししました」と言われているのだと思います。ガイオが巡回伝道者たちに宿を提供し、その経済的必要を満たしていた行為が、愛についての証しであったのです。そして、この愛についての証しが、「真理に歩んでいる」ことの具体的内容を示すものであった、ということになります。「真理に歩んでいる」というだけでは、抽象的過ぎて、具体的にどういう歩み方をするのかよく分かりません。それがここでは、巡回伝道者たちに宿を提供し、彼らが次の旅に出るときには何の心配もないように経済的支援をして送り出すことである、と教えられるのです。
私は、以前アシュラムの関係で台湾に行くことがよくありました。台湾の教会の方々は日本から来る人々を温かくもてなしてくださいます。日本から台湾に行ったことのある多くの方々が、そのことを感じておられるでしょう。私の場合、アシュラムの関係で台湾に行くと、至れり尽くせりのもてなしを受けてほとんどお金を使わずに済んでしまった、ということが少なくありませんでした。もちろん、経済的に余裕のある方々がそうしてくださったのですが、そのような境遇の[今はもう天に召されている]あるご婦人は、「日本から特にアシュラムのために台湾に来られる方々をもてなすことは、神様から私に与えられた使命だと思っています」と言われていました。このご婦人の場合も、まさに「真理に歩んでいる」一つの事例であったのではないか、と思わされているのです。
ところで、教会にいるすべての人が「真理に歩んでいる」というわけではありません。9節以下を見ると、そうではない事態があることについて記されています。具体的な名前まで挙げられて、本人にとっては不名誉でお気の毒なことだと思いますが、デオテレペスという人がやり玉にあげられています。彼は目立ちたがり屋であったらしく、「かしらになりたがっている」と言われています。そういう傾向の人は、教会の中でもトラブルを起こしやすいですね。それはイエス様の御心に一番反することだからです。
イエス様は「かしらになりたい者は、みんなのしもべになりなさい」(マルコ10:44)と言われます。デオテレペスが「かしらになりたがっている」のは、権力を振るいたいからでした。10節後半に、「彼は意地悪いことばで私たちをののしり、それでもあきたらずに、自分が兄弟たちを受け入れないばかりか、受け入れたいと思う人々の邪魔をし、教会から追い出しているのです」と告発されています。彼の言い分も聞かなければなりませんが、ここに書いてある通りだとすれば、本当に困った人ですね。まさに「真理に歩んでいる」のとは正反対で、《真理に歩んでいない人》の姿が描かれているのです。
著者(長老)は、「私が行ったら、彼のしている行為を取り上げるつもりです」(10節前半)と書いています。取り上げてどうするかは述べていませんが、処罰をする(戒規を執行する)という含みのある言い方のように思われます。それで、悪い見本であるデオテレペスの歩みには「見ならわない」ように(11節以下)と勧告されているのです。
イエス様は、「わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マルコ8:34)と言われます。ですから、デオテレペスのように「自分が、自分が」という思いに駆られている者は、真理に歩むことなどできないのです。しかし、自分を捨てることは、自分の力でできることではありません。私たちが本当にイエス様の愛をいただくようになるなら、おのずから自分を捨てることができるようになるのです。
それでイエス様は、いつも、そして今も、「わたしを受け入れ、わたしの愛を受けなさい」と言われています。そう言われるイエス様は、いつでも、どんな場合にも、私たちの罪を無条件に赦(ゆる)し、限りなく赦してくださるのです。「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることはなく、とこしえに怒り続けられることはない。・・・私たちの悪に従って報いられることもない」(詩103:8~10、新共同訳)。主イエス様は、私たちの罪に応じてあしらうことなく、無条件・無制限に私たちの罪を赦し、永遠のいのちを与えられた者として私たちを喜んでくださいます。そのイエス様をお迎えすることが、私たちの信仰なのです。
イエス様をお迎えすることは、イエス様の愛をいただくことであり、イエス様が私たちを愛してくださることの確証として、イエス様が私たちと共におられるのです。そのようにイエス様の愛を体験していくとき、私たちは自分を主張するようなことが自然になくなります。そして、イエス様の愛にお応えして歩みたい、という思いが内から湧き上がってまいります。そうなるように、私たちは全身全霊でイエス様を知り、イエス様の愛を受けるようにしましょう。
2節に「たましいに幸いを得ている」「健康である」と言われているのは、イエス様の愛を豊かに受けて「真理に歩んでいる」状態を指します。そのように「真理に歩んでいる」者は、《憎しみのあるところに愛を、裁きのあるところに赦しを、闇のおおうところに光をもたらす》平和の器とされるのです。
(『西東京だより』第86号・2011年12月より転載)
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