皆さんは「甘え」と聞くとどんな印象を持たれるでしょうか。「あなたの考えは甘い」「甘ったれている」など否定的な意味で使われることが多いですが、「甘え」は人間の心の成長になくてはならない心性だと感じています。クリニックを受診される患者さんを見ても、上手に甘えられない人は親子関係に問題のある人が多く、対人関係で悩まされています。
私の定義する「甘え」とは、「相手が自分に特別な好意を持っていることを期待できる心の態度」で、豊かな信仰生活にも「甘え」は必要です。信仰そのものは神からの愛と恵みに対する個人の応答であり、甘えの入る余地はありません。しかし、神との関係を深めていく過程において「甘え」の要素がないと、信仰生活がぎすぎすして、ゆとりや喜びのない厳しい修行になってしまうかもしれません。
甘えの大切さを解説してベストセラーになったのが『『甘え』の構造』です。クリスチャンの精神科医である土居健郎氏によって1971年に出版された名著です。日本人に特徴的な「甘え」のしくみを解き明かし、「人は甘える体験をしていないと、ちゃんとした自分を持つことができない」と教えたのです。
土居氏の警鐘にもかかわらず、その後日本の社会と文化は変質し、油断ならない、甘えられない社会風土が形成されていきました。良き「甘え」が消失し、甘えたいのに甘えられない「すねた」人たちが増えているように思われます。
折しも2003年には養老孟司氏の『バカの壁』という本が400万部を超える売り上げを記録しました。一言で言えば「人に分かってもらえると考えるのは甘い」という「甘え」を否定した内容です。約40年前には、「人間というものは、分かってくれるはずだから、素直に甘えて話してごらん」という本がベストセラーになり、約10年前には「分かってもらえるなんて甘い」という本が空前のベストセラーになりました。ちょうどこの頃から、自殺者が毎年3万人を超えるような異常事態が続いており、甘えが許されなくなった社会風潮が関係しているように思われます。
そうは言っても「甘え」には幼児性や未熟性を連想させるところがあり、甘えすぎて「甘ったれるな!」と叱られた場面を思い出したりして「本当に甘えていいの?」と用心してしまう気持ちがあります。
C・S・ルイスは『四つの愛』において興味深いことを書いています。ルイスは高尚で無償な愛について筆を進めようとするのですが、否定できないある事実に気付きます。それは、人間とは愛を与える存在である前に、愛を受けなければ生きていけないということです。この「求める愛」を卑しい恥ずかしいものと見なすのは、人間の本質を見間違える誤った態度であると注意を促しています。この「求める愛」こそ「甘え」につながる心性だといえます。
旧約聖書における「甘え」の心情を探してみますと、次のような言葉が目に留まります。
「知れ、主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ」(詩篇4:3)
ここには、神様の自分への例外的な配慮を期待する信頼感が描かれています。これは神に甘えるということです。「神様は私をとっても愛してくれている、自分は神様のお気に入りだ」という安心感とよい思い込み、これが神への「甘え」です。
新約聖書においてはイエス様の「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイ7:7)という勧めの背景に、甘えの心情が見て取れます。
子どもは、お父さんになら自分勝手な無理なお願いをしても、受け入れてもらえるという安心感を持っています。これが父に対する健全な「甘え」です。「父が自分に良いものをくださらないはずがない」。イエス様は、そのような深い信頼を父なる神様に抱いたらいいよ! もっと神様に甘えたらいいよ! と教えているのです。これが良い意味で神に「甘える」ということです。
また、神への良い甘えがあれば「どんなにひどい罪を犯しても許されるという安心感」を持てます。神の愛と赦(ゆる)しを期待して飛び込んでいける無邪気さを持てるのです。大きな罪を犯したとき、ペテロはイエス様に甘えられたので、悔い改めることができましたが、ユダは悔やむだけで、イエス様に甘えられませんでした。
ちょっと自己満足で一方的だと笑われるかもしれませんが、私たちクリスチャンは神の目から見て特別な存在だと思い込んでいいのです。「神に愛されている選ばれた人である、神の子どもである」という信仰によって、無邪気に天のお父様に甘えて生きましょう。
「私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます」(ローマ8:15)
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