聖書に記述はないが、アダムとエバが口にした善悪の知識の木の実は、りんごであるという俗説が広く一般に知られている。世界80カ国以上で栽培され、愛されているりんご。ニュートンが万有引力の法則を発見するきっかけにもなり、「一日一個のりんごは医者いらず」といった、りんごに関することわざも世界には数多く存在する。
日本でも、今では果物の代表格として、年間を通じて食べられているりんごが日本に入ってきたのは明治時代。現在、生産量日本一、国内シェア50%以上を誇る青森県でりんご栽培が始まったのは1875年のこと。今年でちょうど、140年になる。同県でりんご産業が本格的に広まる土台を作ったのは、85年に同県藤崎町に設立された「敬業社」。神を敬う会社という意味の名前が付けられた。同町出身の熱心なクリスチャンである実業家の長谷川誠三と地主の佐藤勝三郎が株式会社を組織し、本多庸一、初代弘前市長菊地九郎、当時はまだ村であった藤崎村の初代村長清水理兵衛、医者の藤田奚疑(けいぎ)らを株主として、7町5反歩のりんご大農園を経営、東京に出荷するなどして大成功を収めた。長谷川らの成功に目を付けた地元の地主らが、各所にりんご園を開設し、97年ごろには、同県はりんご産地としての地位を確立することになったという。
この長谷川誠三(1857~1924)という人物について、1977年に「長谷川誠三研究」という論文が発表されている。著者は、明治学院大学キリスト教研究所協力研究員の岡部一興氏。学生時代、日本におけるキリスト教の受容について研究する中で、長谷川に出会った。同県弘前市にある日本最古のメソジスト教会で現地調査を行っていた時のことだった。
長谷川は、「株の神様」と呼ばれるほどに商才に秀でていた人物だった。その生涯で携わった事業を挙げると、りんご産業だけではなく、馬鈴薯(ばれいしょ)およびでんぷん生産業、銀行設立、牧場経営、温泉開発、鉱山経営、学校設立、孤児院事業と驚くほど多岐にわたる。これらの事業で膨大な利益を上げ、青森県一の実業家・教育家として、全国にその名をとどろかせた長谷川だったが、実生活においては、世俗的な生き方から離れ、非常にまっすぐで純粋な聖書信仰に生きた人であったという。
受洗とともに家業の酒造業をやめて、みそ・しょうゆ製造業に転業。誰に対しても帽子を取って丁寧にあいさつし、1913年の東北・北海道大凶作の際には、20万円の大金を出し貨車50両の外米を輸入、無償で分け与えたという。そんな長谷川は貧民の間でも大変敬われており、知らずして長谷川家を襲った暴徒が、謝って帰っていったという逸話も残されている。
りんご産業140年、敬業社設立130年の節目の年に、思いがけず長谷川に注目が集まることになった。毎月開かれている横浜プロテスタント史研究会の例会で昨年3月、予定していた発表者が急きょ参加できなくなる事態が発生。岡部氏が代理を務めることになり、長谷川研究が掘り起こされることになったのだ。せっかくの機会だからと、長谷川の親族に呼び掛けたところ、2家族が発表を聞きにやってきた。それがきっかけとなり、昨年9月には、さらに2家族が加わった計4家族と岡部氏が横浜で一堂に会した。「もっと深く長谷川誠三について調査してほしい」との要望を受け、岡部氏は30年ぶりに、あらためて長谷川を捉え直す研究を始めることになった。長谷川の生誕160年に当たる2017年に評伝本を刊行することが目標だ。
明治初期、欧米文化と共に開港都市から日本に入ったプロテスタントは、農村地域にまでまたたくまに浸透したが、地方教会の働きが注目されることはそう多くはない。岡部氏は、地方教会の一平信徒がキリスト教信仰にいかに生き、人々に影響を与えたのかを明らかにすることの重要性を感じているという。
「長谷川誠三研究」では既に、長谷川の実業家としての業績だけではなく、彼の信仰生活の歩みについても残された記録から明らかにされている。岡部氏は、今回の新たな調査で、長谷川の生き方にさらに迫っていきたいと考えている。若い頃の自由民権運動に挫折した長谷川が、キリスト教に心のよりどころを見出して家族と共に受洗したことや、メソジスト藤崎教会で長い間忠実に奉仕したこと、その教会を出てプリマス・ブレザレン派に移籍したことなど、その背景をさらに詳細に浮かび上がらせることができれば、と話す。
昨年10月には青森県を訪れ、関係者への聞き取り調査を行い、資料を集めた。現在は、収集した資料に目を通している段階だ。長谷川の内面を知ることができる文献がこれから出てくると面白い、と岡部氏の期待は膨らむ。