インド教会協議会(NCCI)の「正義と平和・被造世界」委員会は、青年プログラムの一環として、イエス・キリストが十字架にかけられて血を流したことを覚える聖金曜日の礼拝を意味あるものにしようと、「イエスに従い、献血をし、いのちを与えよう」と、公式サイトで呼び掛けている。
これは、同委員会の「正義のための青年」プログラムである「行動によるクリスチャンとしての責務のためのナーグプル青年会」(NYCCiA)の活動。4日には、インド中西部マハーラシュトラ州の都市ナーグプルにあるNCCIの敷地内で「献血キャンプ」が行われる。
NCCIによると、NCCiAは、福音を説くだけよりもむしろ「福音を行う」と決めたナーグプルの青年クリスチャンによるエキュメニカルな表現だという。
NCCIはこの呼び掛けが持つキリスト教信仰の基盤について、「『イエスの血』は、生きとし生けるものにいのちを与えます。神はイエスにおいてご自身のいのち(血)をささげられ、それが私たちのキリスト教信仰における愛の肯定です。聖金曜日は全ての者のためにご自身の血を流されたイエスを覚える日です。キリストは、入院している人にご自身の血を1、2ユニットささげられたわけではありません。全ての者のいのちが満たされるようにするために、イエスはその全てを私たちの贖罪のために流されたのです」と説明した。
NCCIさらに、「もちろん、イエスの血のうちの一滴には私たちの名前があります。血の賜物は神からのいのちの賜物であり、人間の血に代わるものはありません。聖餐式ごとに、クリスチャンはイエスの体と血の象徴を共にするのは、裂かれたその体と流されたその血が全ての者にいのちを与えるということを覚えるためです」と述べた。
NCCIはこの呼び掛けの聖書的な根拠について、「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」とあるヘブライ人への手紙9章12節を挙げ、この節が「いのちとしての血という象徴を確かめています」と説明した。
そして、「癒やすことといのちを救うことは大きな賜物です。イエスは12人の弟子たちを送り出して病気を癒やすよう命じられました」と述べ、「病人をいやし、・・・ただで受けたのだから、ただで与えなさい」とある、マタイによる福音書10章18節を引用した。
NCCIによると、インドでは約4000万ユニットの血液が必要とされているが、そのうちわずか400万ユニットの血液しか供給されていないという。2秒ごとに誰かが血液を必要としており、3万8000件の献血が毎日必要とされている。
また、インドでは100万人を超える人々が毎年新たにガンと診断されており、NCCIは、その多くが、時には毎日、化学療法による治療の間に血液が必要となるだろうとしている。そして、自動車やバイクによる事故が1件発生しただけでも、負傷者のために約100ユニットの血液が必要となるかもしれないと伝えた。
「私たちの周りにも血液が必要な人たちがいるとNYCCiAは考えています。十字架の上のイエスの犠牲のように、私たちがそれをささげるとき、私たちの血液は、それを必要とする人たちのいのちの支えとなるのです。私たちのいのちが多くの人々にいのちを与える血液の管となりますように」と、NCCIは付け加えた。
「さあ、献血によって、イエスの贖罪の行いの一部となりましょう」とNCCIは述べ、全ての加盟教会と地域の諸教会にこれと同じことを行うよう呼び掛けている。