「イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。『種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ」(マタイ13:3~8)
4種類の種が出てきましたが、これは神様が、私たち人間にはいろいろな種類があるということを例えているのです。4つありますが、人間は大きく分けて、3つにまとめられます。神の視点から見て、1)神を信じない人、2)肉のクリスチャン、3)御霊のクリスチャン、この3種類です。
1つ目は、未信者の人、信じてもやめて未信者に戻ってしまうというケースです。最初の種は、道ばたに落ちて、鳥が食べてしまいました。2つ目の種は、土の薄い岩地に落ちましたが、根がないから枯れてしまうのです。枯れてしまう人生、死んでしまうということです。命ある種が、根がないために枯れて死んでしまうのです。
3つ目の種は、いばらの中に落ちたとあります。新改訳聖書で「中に」のフットノートを見ますと、「上に」とあります。最後の種は良い地に落ちたと書かれています。このように、たとえ話をイエス様がなさったわけです。そのあとでイエス様はこう言われました。「耳のあるものは聞きなさい」(9)。
そこに集まっていた人たちは、耳があり、聞くことができました。彼らは聞いているのに、イエス様は「聞きなさい」と言われたのです。
イエス様を信じるとは、どういうことでしょうか。私たちは、目で見て神を確かめるのではなく、目に見えない神を信じるのです。クリスチャンはなぜ、お金がなくても、健康でなくても元気なのでしょうか。それは、見えるところを見ているのではなく、見えないところを見ているからです。神を信じるとは、目に見えない祝福を信じることなのです。
聞いても理解しないと、聞いたことにはなりません。あなたは祝福された人生にあるとの約束を信じない人は、聞いているのに聞いていないのと同じです。たとえ話の続きをみてみましょう。
「すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。『なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。』イエスは答えて言われた。『あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである」(マタイ13:10~15)
人々はそのたとえ話を耳で聞いていました。しかし、15節にあるように「その心で悟って立ち返」らないのです。私たちも聖書を読むとき、聞いているのに分からない、理解していないのです。では、それを聞くには、どんな耳が必要なのでしょうか。
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神内源一(じんない・げんいち) / 徐起源(そう・きうぉん)
ERM聖書学校校長。恵那クリスチャンセンター(岐阜県恵那市)牧師。恵那レーマミニストリー代表、愛知県一宮市の超教派聖会「ワールド・リバイバル・カンファレンス」の理事・講師を務めるなど、その活動は多岐にわたる。同校本部の岐阜県恵那市に加え、京都、岡崎(愛知)、沖縄、立川(東京)など全国数カ所で聖書学校、聖会をおよそ月1回のペースで行っている。インターネット聖書学校、通信聖書学校等も現在開講中。※画像は恵那レーマミニストリーのロゴ。
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