「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。・・・だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(第2コリント人への手紙5章14~17節)
3月に入り季節は急速に春に向かって進んでいます。人は、春を前にして神社の祭りやひな祭りを通して、商売繁盛や家族や自分の健康、幸せを祈りたくなるようです。しかし、単なる困ったときの神頼みのようなご都合主義ではなく、私たちは、「たとえ天地が滅び去ることがあっても、神の言葉は滅びることはない」といわれる、永遠に変わらない神の御言葉を通して、天地宇宙を造られた真の神を礼拝する信仰に導かれていることを喜びましょう。
今日の聖書の御言葉から、私たちの信仰の原点、クリスチャンの本質を確認しておきたいと思います。
1. キリストの愛が私たちを取り囲んでいる
私たちが気づいているかどうかにかかわらず、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるという事実を思い起こしてほしいと思います。イエスの愛は、一生懸命探して見つけ出すものではなく、ただある日ある時一回経験して、遠い過去のことのように振り返るものでもなく、どこにいようと何をしていようと、どんな場面であろうと、キリストの愛が私たちを取り囲んでいる恵みに感謝しましょう。神の愛は、常に十二分に(十分以上に)私たちに与えられているのです。どんなにピンチでも、神の御使いが私たちを取り囲んでいると詩編にあります。元気であろうと疲れていようと、生活の中に楽しい話題があふれていようと、心が苦しくなるようなことでいっぱいであろうと、どんな場面でもキリストの愛が私たちを取り囲んでいるのです。
2. 十字架が私たちにとって事実となった
クリスチャンとしての信仰は、キリストのご生涯に感動し、聖書の教えを単なる文字で書かれた古い物語として学ぶことではなく、イエスが十字架で死なれたことと、死の力を打ち破ってよみがえられた事実に自分の命を重ね合わせることです。イエスが、私たちのすべての罪のために十字架の上で死んでよみがえられたということは、私たちのすべての罪もイエスと共に死に、私たちはよみがえり、復活の命を頂いたのです。イエスの十字架と復活を、自分の命と重ね合わせ、自分の命の中に、イエスの十字架の死と復活の命があると知るとき、キリストの十字架と復活が自分のものとして事実となるのです。
3. 私たちには新しい命が与えられている
イエスを救い主と信じて心に迎え入れ、クリスチャンとして歩み始めた私たちは、キリストによって古いものがみな取り除かれ、新しい命が与えられました。神と共に歩む新しい命が私たちの内に機能するのです。キリストの十字架の苦しみを記念する受難週とイースター(復活節)が、春ごとに巡り来るのも単なる偶然ではなく神が選ばれた時期です。春の新しい命の芽生えを見て、主の復活にあずかっていることを思い出すべきです。本当は過ぎ去った過去の中に閉じ込められ、人生の失敗や後悔、挫折、悲しみにとらわれていませんか? 「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」という御言葉どおりキリストと共に歩み、古い自分から脱皮してキリストによる新しい命を着ようではありませんか。
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万代栄嗣(まんだい・えいじ)
松山福音センターの牧師として、全国各地、そして海外へと飛び回る多忙な毎日。そのなかでも宗教を超えた各種講演を積極的に行っている。国内では松山を中心に、福岡、鹿児島、東京、神戸、広島、高松にて主任牧師として活動中。キリスト教界のなかでも、新進気鋭の牧師・伝道者として、注目の的。各種講演会では、牧師としての人間観、ノイローゼのカウンセリングの経験、留学体験などを土台に、真に満足できる生き方の秘訣について、大胆に語り続けている。講演内容も、自己啓発、生きがい論、目標設定、人間関係など多岐にわたる。
また、自らがリーダー、そしてボーカルを務める『がんばるばんど』の活動を通し、人生に対する前向きで積極的な姿勢を歌によって伝え続け、幅広い年齢層に支持されている。
国外では、インド、東南アジア、ブラジル等を中心に伝道活動や、神学校の教師として活躍している。