アダムとエバが善悪を知る木の実を食べて地がのろわれ、人生がのろわれてしまった、そのあとです。「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」(創世記3:21)。
彼らは裸の体をイチジクの葉で覆っていましたが、神様は毛皮を下さいました。毛皮をもらうということは、その動物は死んだわけです。神様は、動物の命を犠牲にして、これを下さったのです。それは何を意味しているのでしょうか。罪の問題は、私たちでは解決できません。だから神様は、イエス様を身代わりにして、その問題を解決されたのです。
神様の計画は、このアダムとエバがつくられる前からありました。あの姦淫の女を、イエス様は石打ちにしませんでした。どんなに罪を犯すようなことがあったとしても、神様はあなたを、どのように思っているのか。そのみこころは、初めから決まっています。
「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」(エペソ1:4、5)
「世界の基の置かれる前」。それはアダムとエバが罪を犯す前から、これから生まれてくる私たちを、キリストのうちに「選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされた」計画でした。たとえあなたが罪ある者になったとしても、「ご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられ」たのです。
放蕩息子は、お金を使い果たし、罪の意識を持って帰っていきました。その息子に父は、「死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」(ルカ15:24)と言い、一番良いご馳走、一番良い着物を着せて下さったのです。ですから、今あなたが罪を犯しても、落ち込む必要はありません! なぜなら、神様は「死んでいた息子が、死んでいた娘が、生き返った!」と、天地、万物、宇宙をつくられる前からあなたを赦し、「聖く、傷なく、非難されるところのない者」(コロサイ1:22)として計画されたのです。その赦しを私たちが本当に知ったとき、罪を犯しても落ち込みません。「もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない」と言われる者となったからです。
ですから、今罪を告白すれば、赦されるのです。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:9)。
あの姦淫の女のいた場所から去った人々も、同じように赦しを得られたはずでした。しかし、彼らはその恵みを受け取らなかったのです。クリスチャンは、まったく罪を犯さない人生を歩む者ではなく、罪を犯しても、赦される人生を歩む者なのです。その恵みを受けていく人生、これが私たちに約束されていることを知るとき、「私は罪を犯しても落ち込まない、私は神に受け入れられている」と確信し、歩んでいけるのです。
「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(Ⅱぺテロ3:9)
イエス様はあの姦淫の女が救われるだけではなく、律法学者とパリサイ人、そして、あなたが救われることを望んでおられるのです。
あなたは神様に赦されました。地獄に行くべき罪があったのに、赦されたのです。ですから、今まで赦せなかったことが、赦せるようになります。以前は、自分が赦されていないから、人を赦すことができませんでした。あの律法学者とパリサイ人たちは、律法によってだれが正しい、あいつは自分より悪いという考えを持っていたので、自分も赦せないという罪の意識がそこにありました。今自分は赦されている者なのだという事実を知るとき、一時的な感情が湧き起こっても、人を「赦そう」という思いになっていくのです。
■ ヨハネ8章より 罪の赦しについて:(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)
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神内源一(じんない・げんいち) / 徐起源(そう・きうぉん)
ERM聖書学校校長。恵那クリスチャンセンター(岐阜県恵那市)牧師。恵那レーマミニストリー代表、愛知県一宮市の超教派聖会「ワールド・リバイバル・カンファレンス」の理事・講師を務めるなど、その活動は多岐にわたる。同校本部の岐阜県恵那市に加え、京都、岡崎(愛知)、沖縄、立川(東京)など全国数カ所で聖書学校、聖会をおよそ月1回のペースで行っている。インターネット聖書学校、通信聖書学校等も現在開講中。※画像は恵那レーマミニストリーのロゴ。
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