日本国憲法の前文に記された「平和のうちに生存する権利」とは何か?そしてそれはキリスト教とどんな関係があるのか?この分野に詳しい国際政治学者でカトリック信徒の武者小路公秀氏(前大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター所長、元国連大学プログラム担当副学長)に話を伺った。
武者小路氏は、植民地主義について心を入れ替えるメタノイア(日本語訳聖書で「悔い改め」などと訳されるギリシャ語)の必要性を強調するとともに、宗教・アイデンティティーと人間の安全保障に関するジョージアンドレア・シャーニー氏(国際基督教大学上級准教授)の著書や、田辺元著『懺悔道としての哲学』について論じた。さらに、アベノミクスのような「貪欲」な新自由主義の経済に対して仏教とキリスト教が共に闘う考え方についても言及し、最後に世直しをするキリスト者の役割と日本国憲法の意味を指摘した。
◇
武者小路氏:何を話したいかということを先に申し上げますと、2つのことが一緒になっているんですが、一番言いたい大事なことは、日本国憲法の前文で平和的生存権というふうに要約されている、日本国憲法はそれで平和憲法であるといわれている。そして、平和憲法だということを中心に考えられてきたけれども、平和憲法は確かに平和主義だけれども、その「平和」の基にあるもっと大事なことは、日本が周りの国々に侵略をして、そこで平和に暮らしている人たちの、平和に暮らしているところで(もちろん貧しいかもしれないし、いろんな問題があるかもしれないけども)、とにかく平和に自分たちで自分たちの生活をしていた、その人たちのところに土足で踏み込んで、それでひどい目に遭わせて平和に生活できないようにしてしまったことの反省の下で憲法前文が書かれているので、「平和に生きる権利」というのは、要するに植民地侵略を受けると「平和に生きられない」というので、植民地侵略されないで自分たちの考えに基づいて平和な生活を送ることができる、そのことが大事なのです。世界で初めて、憲法という公文書で、植民地侵略は人権侵害であるということを初めてはっきり宣言したのは、日本国だったわけです。
だから、その憲法を大事にするということは、ただ平和を大事にするということじゃなくて、植民地侵略がいけないということを他の植民地侵略をした、米国や欧州の国々に先立って日本がそのことをはっきり断定したのです。
それを言った日本は、元々植民地支配されることがいやで、植民地侵略を進めた国です。自分が植民地化されることがいやなので、人を植民地化してもいいという、とんでもない自分たち独り勝手な発想をして、そのことを敗戦のときに反省したのです。自分たちだけが植民地化されないためには強い植民地支配国にならなければいけないということを吉田松陰が言っていたことで、1920年代の軍国主義でいろんなところを侵略しちゃうんじゃなかった。明治維新を進めた幕末時代から吉田松陰の弟子たちは吉田松陰の言ったことに従って、明治時代に始まった日本帝国は植民地侵略国になったのです。吉田松陰もそれがいいと言っているわけじゃなくて、でもそうでもしないと欧州の植民地主義に打ち勝つことはできないという、西欧諸大国に文明国と認められるためにそうでもしないと始まらないという、倫理と関係のない現実論を唱えていたのです。
それで太平洋戦争に負けた段階で、やっと日本人が、植民地侵略の罪悪について、倫理的に目が覚めたのです。目が覚めたというとき、田辺元の『懺悔道としての哲学』という本に書いたように、その考え方は、まさに洗者ヨハネとパウロのメタノイアだったのです。
平和に生存する権利ということを日本が認めたのは、心を入れ替えた、つまりメタノイアの結果そうなったのです。メタノイアというのは、われわれキリスト者のみならず欧州や米国の人たちは、キリスト教の伝統があるからそう思うけれども、日本にはそういう思想の伝統がないと私は思ってきたわけです。
そうしたら、田辺元は、パウロの思想と親鸞上人の思想が同じであるということを書いているのです。懺悔という言葉を親鸞上人はたくさん使っていないけれど、結局そういうことを目指している。それで、われわれキリスト者の場合には、要するに、メタノイアによって、メタノイアは、そこのところはまたあまり説明をたくさん始めるとすごい神学論争になっちゃうのでやめますが、洗者ヨハネのメタノイアは洗礼とメタノイアを一体と考えて、要するに思いを変えるだけじゃなくて、人間が生き変わると説いていたのです。洗礼以前の私は死んで、そして新しくイエスと一体になって自分が生まれることを信じているんです。洗礼によって新しい生命が生まれるのです。それと同じように、洗者ヨハネは自分としては別に悪いことをしていない。ところがパウロの場合には悪いことをして、悪いことをしたところで目からうろこが落ちた。それでパウロのメタノイアはわれわれ日本人のメタノイアの問題になる。つまり悪いことをしたことで、生まれ変わったはずなのです。生まれ変わって平和な人々になったのが、憲法前文の「平和的生存権」の思想的な意味なのです。
そういう考え方は、キリスト教ではパウロのメタノイア、イエスの弟子をたくさん殺したり拷問にかけたりしたという反省で、自分はいい人間に生まれ変わるのでは全くない、自分はイエスに生まれ変わるのだと信じていたわけです。だから信仰によって義とせられるのであって、善人には全然なろうとは思ってない。善人になる必要はなく、イエスになればいいので、そこが親鸞の、要するにいい人間になるんじゃなくて、自分がいかに無力かということ、自分の力では善人になれないのだと、そういうところで、パウロと親鸞とは、まったく同じ信仰に生きようとしているのです。阿弥陀様の信仰によって生まれ変わるという考え方が、日本にもちゃんとあるのです。われわれはどういう形で生まれ変わるかということで、宗教の違いはあるかもしれないけれど、それは人間の立場からのの違いであって、絶対者が阿弥陀様かキリストの父であるかということは違うように見えるけれども、それは人間から見て違うので、絶対者の方からはいろんな形で人間を見られているということだと思います。そこのところで、「平和に生きる権利」を主張するとき、われわれはエキュメニズムの考え方を(採り入れる)必要があります。
ただキリスト者としてもう一つ問題があります。実は、去年韓国で歴史と和解についての会議があって、そこで今のような話をしました。植民地支配は人権侵害であるということを日本は、自分のしたことを反省して認めたという説明をしました。そうしたら、従軍慰安婦問題でオランダの女性が従軍慰安婦にさせられたということで、オランダの歴史学会の会長さんの女性がソウルの会議に来ていました。その人だけが私が言ったことに反対したんです。
中国の人も韓国の人も私がそういうことで日本が心を入れ替えたということで、植民地主義が悪いということを中国とも韓国とも一緒になってわれわれはその時そう言ったんだと、それを今は忘れちゃったけどそれをもう一回思い出して、メタノイアの気持ちで皆さんと一緒に植民地主義と闘いますということを言ったら、オランダのその歴史学会の会長さんが、年寄りの女性だったんですけども、「若い人は違うと思いますけども、オランダの昔の考えなので、植民地主義は決して悪いものではない。悪いこともしたけどもいいこともした。だからそれを言うな」と言われて、私は「植民地主義の中でもちろんいいことをした人もいるけども、それは奴隷制の中でも米国のアンクルトム・キャビンとか、要するに奴隷と主人が仲良かった、そういうところがあるからだから奴隷制がいいというわけではない。だからいい人もいたかもしれない、それは全然否定しないけど、だから奴隷制がよかったとは誰も今は言わない。
植民地主義が良かったというのは奴隷制がよかったということと同じことで、それを日本は植民地化されることはどれだけ不愉快なことかということが分かっていたから、自分はされたくない。そのために他の国を(植民地化)してしまったと。これからは他の国もしないし、要するにいろんな形での植民地主義がいま国の中で貧富の格差が出てきて、金持ちが貧しい人々、大部分の人々を植民地支配しているように、国内のそういう新しいグローバル化した、違う土地を占領して植民地化できなくなったから、自分の国の中の一部を植民地化するという、そういうような新しい植民地主義も出てきているし、本当の植民地主義はアフガニスタンとかイラクとかそういうところで悪いことが続いている。それを人道の名において介入していくということをやっているのは、実は別にキリスト教会がやっているわけではないけれども、しかしキリスト者がたくさんいるところで、今のおばさんのように『植民地化はいいんだ』と、だからその人道介入ということもある時にはやらざるを得ないけど、何か人権を守っているわれわれ先進国が入っていって教えてやるんだということは、まさに昔の植民地主義と同じようなことで、昔は要するにキリスト教の信仰を与えるためにと言っていたのが、今は人権を守らせるために、と。だけど結局それは世俗化したキリスト教から出てきた考え方。だからわれわれキリスト者も植民地主義は悪いということに目覚める必要があるんじゃないかということを、まず言いたいのです。
今言いましたようなことをもしも分かってもらえれば、従軍慰安婦がいなかったとか、そういうバカバカしい、歴史的に正しくないことを言う人たちは、一生懸命日本がせっかくそういういい反植民地主義の立場を取っているのに、「植民地主義ではなかった」と、「植民地侵略ではなかった」と言って、「だからそれだったらそんな懺悔なんかする必要はない」(と言う)。
懺悔しなかったら日本国憲法もないと。だからそれを認めることが大前提で、日本は非常に大事な憲法を持った国になったと。それを否定してしまうと、憲法自体も否定する。植民地侵略というものはそんな悪いものではないと言う。それで頑張るということはかえって実は、戦争のときに日本人が死んだということが犬死にになってしまう。本当にその死んだことが人柱となったとするならば、それは日本がそういうふうに心を入れ替えるための犠牲になったんだということであれば、それは尊い犠牲であったと。そういうふうに考えなければいけないのに、何か日本が悪いことがしたというと、戦死をした人たちが浮かばれないと。それは全く逆なんだという発想をすることは、いろんな戦争で亡くなられた遺族の方たちの気持ちというのは確かに大事なもので、それを大事にするためには、やっぱり日本はそういう風に心を入れ替えたということにして、ということは日本人がそう自覚して、自覚すれば戦死をした方たちが戦死をしたことによって日本は心を入れ替えたと、そういう風に考え方をひっくり返すと、靖国神社の意味とか、そういうことも全部逆になる。
そういうところを、悪いことをしてないから戦死した人たちは大事なんだというのではなくて、悪いことをしたからこそ大事なんだと、それで心を入れ替えたんだというふうに考え方をひっくり返さないと、今の考え方っていうのは本当にバカバカしい。日本は悪いことをしてないんだということを一生懸命言おうとするのは、外から見たらそんなことはバカバカしい。要するに詭弁だということは、横から見ても分かるのに、日本の中だったらそれは正しいんだということを言っている人たちは、ネット右翼とかそういう形で増えていく。
そのメタノイアということが、心を入れ替えたということが非常に歴史的にとても大事なことなんだと。日本というのは欧州とか米国の国々、外の国で初めて自分も植民地を持った。自分も植民地化されないために持った。だから初めから植民地主義が悪いということはちゃんと知ってる。その立場でされたほうではなく、したほうが悪いんだということをちゃんと認めれば、そうすれば欧州の国々もそれを認める。それの先鞭を付けるんだと、そのことを今日は話したいわけです。
インタビュアー:先生はジョージアンドレア・シャーニー氏(国際基督教大学上級准教授、政治学・国際関係論)の最近の著書である『Religion, Identity, and Human Security(宗教、アイデンティティーと人間の安全保障)』(Routledge、2014)という本についての書評をお書きになったとのことで、それについて何かお話をされるとのことでしたが。
武者小路氏:その話がなぜ大事かということは、今2つのことが一緒に起こっていて、1つは欧州で出てきたいわゆる近代社会が、行き詰まるところまで来てしまったと。その近代社会というものは世俗化したキリスト教社会であったと。キリスト教という宗教を個人の信仰ということにすることで、公共圏、公の世界では宗教はいれないと。それが世俗主義で、宗教を入れないということを一生懸命やってきたら、欧州も米国もいろんなイスラムの人とか違う宗教の人たちが出てきて、それでその人たちに対して、世俗主義を押し付けた。世俗主義を押し付けたのはキリスト教、特にローマ帝国の跡継ぎになっていたローマ・カトリック教会の、人を火あぶりにしたり、そういうことに対する闘いの末に世俗化したので、だからローマ・カトリック教会に対抗して「ベールをかぶるな」と言うことは筋が通ってるけども、それはベールをかぶっているシスターが公の学校とかそういうところで威張っていると、やっぱり昔のローマ教会の思想統制というものを思い出させることになる。
だけども今ベールをかぶっているイスラムの女の子が、ベールをかぶっているからといって別にイスラムが支配するわけではない。支配されているほうのマイノリティーの弱い人たちが、そういうふうに自由に自分の信仰を表明することは美しいことであり、それを認めることが、やっぱり欧州のたどり着いた一つの近代化で、だからそれを許すのも大事なのに、ローマ・カトリック教会に対する闘いと同じような闘いをイスラムに対してもしてしまうというのは非常におかしな話になる。だからポスト世俗主義の時代に、世俗主義をもう一回考え直さないといけないというのが、そのシャーニーが言っていることで、私もそう思っていたのですけど、田辺元の本を読んで、実は親鸞上人とパウロが同じことを言っていたんだったら、何もその・・・メタノイアというのは西洋のキリスト教の考え方であると、実は私はそう思っていた。キリスト教を基にして私はそういう考え方を持っている。だけど浄土真宗の立場とキリスト教の立場はほとんど違わないんだということを言っているわけです。
それで、そのことについても書いてくださるのでしたら、一つ、私にとっては非常に意味のある体験を。実はアルゼンチンに行って、アルゼンチンで私が手伝っている反差別国際運動(部落解放同盟とも、インドのカースト制度社会で不可触民とされるダリットの人たちとも連帯している)の会議がブエノスアイレスであったわけです。それで向こうに行ったら、アルゼンチンの浄土真宗の坊さんがアルゼンチンで布教というか、宗教活動をしている日本人の30歳ちょっとぐらいの坊さんで、その人と話をして、いろいろなことを教わったわけです。これは日本人から教わったので、何もアルゼンチンまで行かなくてもよかったはずなのに(笑)、私としてはアルゼンチンでそれが初めて分かった。それは何かと言いますと、その坊さんは日系人との間でどういう活動をしているかということばかり言って、だから「あなたは日系人以外の人たちに浄土真宗の考え方を教えるということは全然考えていないんですか?」と言ったら、「はい、考えてません」と。
それは当たり前と言えば当たり前だけども、すごい信念を持って言った。「それで、実は仏教には他力本願と自力本願の2つの流れがあって、浄土真宗は他力本願であり、自力本願は全集とか曹洞宗とか天台宗とかそういうところの坊さんは大いにアルゼンチンの人たちに仏教を伝えるべきだと自分は思っています。だけど自分は浄土真宗で、他力本願で、実は阿弥陀様を信ずるか、イエス様を信ずるか、要するに信仰によって義とされるということでは全く同じなのだと、だから浄土真宗で阿弥陀様を信じなさいということを、イエス様を信じてる人たちに教えるのは全然意味がありません」と(言われました)。すごい徹底的(笑)。
そのような話の後で田辺元の本を読んだので。田辺元は同じであると、イエスと親鸞ではなく、パウロと親鸞が同じであるということをちゃんと哲学者として認めている。それはとても面白い。確かに他力本願で、自分の力でいいことをすることを言っているのでは全くない。阿弥陀様の信仰なのか、イエスの信仰なのか、その違いはあるけれども、要するに信仰によって義とされるという、そういうふうに阿弥陀様に生まれ変わるか、イエスに生まれ変わるかというだけの違いであるという、そういうことをアルゼンチンで初めて聞かされて、理屈の問題じゃなくてそれを実践している坊さんからその話を聞いて、自分は何もキリスト教徒に浄土真宗を教えるという余計なことはしません、と(笑)。それはすごい説得力がある話だったわけです。
そういうふうにキリスト教を基にして、近代のいろんな考え方がある。人権もそうですけど、実を言うと、キリスト教のいろんな流れがあるけども、その中の例えばパウロの、要するに自分が悪いことをしたことを基にして、これからいいことをしますとは全然思っていない。自分は悪者であると。だけどもイエスによって、信仰によって、自分はイエスになると。そういう考え方というのは確かに浄土真宗の親鸞上人の考え方と非常に似ている。
だからシャーニーの言うことも正しいけども、「キリスト教 対 他の宗教」っていうけども、実はキリスト教の中にはそういう他の宗教と非常に似たところがあるので、それをどう生かすかというところに目を向ける必要がある。ただキリスト教だからいけないんだとか、シャーニーの言っていることで正しいことは、やっぱり非キリスト教の世界の、要するに植民地化された体験をした人たちは、自分たちはキリスト教の名において、正しい信仰を与えるために植民地にされたと、そういう気持ちを持っていることは事実だし、ある意味で欧州の植民地主義というのは、欧州の中のカトリックとプロテスタントの殺し合いをやめさせるためにウェストファリア条約ができて、それで欧州の中で正しい宗教は王様の宗教であると、その代わり王様の宗教でない宗教は我慢するということで、tolerance という、とても寛容でない寛容という言葉ができてしまった。要するにカトリック教国では、プロテスタントは正しい宗教ではない、でも我慢をしてそれを認めると、それが寛容だっていう、非常に面白い考え方が出てきた。それで欧州の中ではそうだったんだけれども、欧州の外ではむしろカトリックとプロテスタントが植民地をどちらが獲得するかという、というのは、実は宗教戦争を欧州からは閉め出したけれども、欧州以外のところでは宗教戦争はずっと続いて、それでいろんなことが起こって来た。それをわれわれキリスト者は反省をして、やっぱり植民地主義はやめた方がいいという、そのことをシャーニーがはっきり書いているので、それは大事なことだろうと。そのことを全部つなげると、植民地主義を否定した日本国憲法の前文の「平和に生きる権利」ということの歴史的な意味がそこにあるんだろうということで、シャーニーの本の中身(については)他のいろんなことがありましたけど。
だけど結局一番大事なのは、2つあって、植民地支配の道具になったということで、われわれが反省というか、やっぱりそこでは心を入れ替える必要がある。実はそれは内村鑑三先生の無教会という考え方はそこから出てきた。植民地支配的なミッションという形の制度を乗り越えて、日本を通じてキリストにつながるという考え方は、まさに植民地主義のメタノイア、心を入れ替えるということで、それで内村鑑三先生の影響が、日本のキリスト教に一つ大きな流れとしてあるというのは、まさに私はそれは反植民地主義、植民地主義を反省するという、はっきりはそう言われてないけど、発想の元にはそういうことがあるのではないか、と。
それでシャーニーのこと、もう少こしちゃんとシャーニーの本の意味について、もう1回説明したいと思います。要するに、今いろんな議論が出てきている。特に欧州の方で、さっきスカーフの話をしましたけれど、ベールとかスカーフとかで顔を隠す、それをフランスで小学校にベールをかぶってはいけないということを裁判所でも決めたりして、それに対する反対の考え方をイスラムの人たちも、それからイスラムの人たちを支援している人たちも、一つの大論争になって来たわけです。そのことが一つのきっかけですけれども、あといろんなところで、世の中を良くするためには、要するに、欧州が経験したように、宗教があるところを、宗教は個人の自由であると、だから親密権というか、プライバシーの世界、私的な世界ではどんな宗教を信じてもいい、と。だけど公の世界ではどの宗教が正しいとか、どの宗教がダメだとかいうことをお互い議論すべきではないという、いわゆる世俗主義がずっと方々で認められて来た。
そして日本でも同じように政教分離、政治と宗教を分離するということで、国家神道を否定するということになったわけです。私は政教分離はとても大事だと思っていますが、そのシャーニーさんの本では、政教分離ということで、宗教が入らない公の議論の場で、民主主義のコミュニケーションというのができるんだということになってきたところで、特にグローバル化の一つの流れの中でたくさんイスラムの人たちが移住して欧州とか米国に入って来た。イスラムだけではなく、仏教とかヒンズー教とか、いろいろな宗教の人たちがたくさん入って来て、それでその人たちが、宗教の問題は単に家庭だけの問題ではなく、公の場でも、ターバンを巻いたり、いろんな身なりによって自分の宗教をはっきりさせるという、そういう習慣を持った人たちが入って来て、それでポスト世俗主義の時代に今は入っていると。それでポスト世俗主義の時代に入ったということを、世俗主義のことを理論化して有名になっていたドイツのハーバーマスという人が、今はポスト世俗主義で、やっぱり宗教をいろいろ入れなければいけないということを認めたわけです。
認めたけれども、シャーニーさんの本を読んで私は勉強したんですけども、「ハーバーマスはいいことを言っているな」と思って読んでたら、そうではなくて、実はハーバーマスは非常に善意でそういうことを言ったけども、世俗的な議論の中に非西洋の宗教を入れるということを言って、世俗主義というものはいろんな宗教に対して公平に扱うことができる、そういう世俗主義というものがあると言ってるけれども、世俗主義という考え方自体がキリスト教の中から出てきたもので、それを前提にしてベールをつけるかつけないかというその議論をすること自体がキリスト教が前提になっちゃっているんだ、と。
だから、キリスト教が前提になってしまうと、それは植民地時代を思い起こさせる。それでキリスト教以外の信仰を持った人たちと、キリスト教に根ざす、実は信仰を持たなくなっちゃってる人たちも含めて、その欧州の考え方と、例えば人権ということを考えたときに、人権は世俗的な考え方で、別にキリスト教の考え方ではない。確かにイエスの教えがあり、パウロの考え方があって初めて、要するにいろんな宗教、ユダヤ人であろうが異邦人であろうが、みんな平等なんだという、その考え方自体はパウロがいなかったら出てこない。それはやっぱりキリスト教があって初めていろんな宗教は対等なんだという考え方も出てきている。そのことを意識しないといけない。
そのところでキリスト者にとっての問題が二重になるわけで、つまり片方では福音の一部である、よきおとずれの一部である。だからそれを守ることは要するにキリスト者の信仰の表れとしては当然のことである。だけどもそれをキリスト教の考え方だから人権を守ると言ってしまうと、要するにイエスがキリストであることを信じていない人たちの考え方を尊重することにはつながらない。だからそういうふうに開かれた立場を取るということは、そういうふうに大変だという問題がその本で出て来ているわけです。
それのちょうど正反対の形で、田辺元という、田辺元自身が浄土真宗の信仰を持っているわけではない、でもそれがよくわかる日本人として、彼は親鸞の考え方と、それと自分が一生懸命勉強して欧州の哲学を学び、欧州の哲学を学ぶとすればやっぱり神学も学ばないと分からないということで、パウロのこともちゃんと勉強して、それで両方が少なくとも懺悔という点では結局は同じことなんだということで、シャーニーとちょうど正反対の、その2つの方向が、平和に生存する権利ということでつながるなあということを痛感したということです。
インタビュアー:平和的生存権といえば、人間の安全保障に関する国連開発計画(UNDP)の『人間開発報告書』(1994年)にもその文言が一部出てきていますね。それとの関連で、先生は人間の安全保障についてずっといろいろ提言をされてきましたが、シャーニーさんは人間の安全保障という概念そのものを吟味するということをしていますね。
武者小路氏:はい、そうなんです。実を言いますと、人間の安全保障を定義するときに、人間の持っているいろんな価値の、最も中核的な価値というものが脅かされると非常に不安になったり不安全になる。その価値を守るべきであるということは、初めから緒方(貞子)さんとアマルティア・センが中心になって書かれた国連の人間の安全保障についての報告書の中でそのことは書いてあるわけです。ですけれども、中核的な価値ということを時には、人権の普遍的な価値とか、そういうことを考えている。実は人間の不安全というものが、逆に人間の安全保障ということを定義するときに、いろいろ定義が難しくなりますけども、一番分かりやすいと私が思うのは、逆にすればいいわけで、人間の不安全ということなら、何が不安全かというのを一番知っているのは、学者ではなく、実際に差別されたりしている人たちは、何が不安全かを一番良く知っている。人間の安全保障というのは、そういう人たちが不安全だと思っていることをなくすことが中心になる。
その場合には、戦争とかそういうものは「恐怖からの自由」ということと、それから貧しさということで「欠乏からの自由」というのが大事だという話に、国連の報告書もそうなっている。それはとてもいいけれども、実はそれはキリスト教の考え方がなかったら、そんな考え方は出てこない。確かにそう言われれば、イエスの山上の教えを垂れて言われたことが基にあるからこそ、平和ということ、それから貧しさの中、あるいは不安全な中で生きている人たちが、イエスの最も小さな兄弟であるという、その考え方があるからそういう話になるわけで、だからそれはやっぱりキリスト教と関係がある。
でも、だから、他のところでそれを押し付けちゃいけないという側面もあるけども、だけどそれは客観的に言ったら大事なことなんだ、と。だけど他の言い方をしている人たちがイスラムの中にもいるし、仏教の中にもいるし、ヒンズー教の中にもいるし、いろんなアニミズムの中にもあるわけで、だからそのいろんな多様な考え方があるということを認めて、そしてその共存、お互いにお互いを否定しないで、しかし違いというものをちゃんと話し合いをしながらより多元的な世界を作っていく必要がある。多元的な世界はしかし結局は一緒なんだという、そこのところに、つまり人間の安全保障というのは、やはり人間のものの考え方とか文化とか、そういう形で、既成宗教という意味ではなくて、人間がいろんなことを信じている。その信じていることによっていろいろ問題も起こるし、不安全も起こるし、安全になるためには自分の信じていることが安全に信じることができるようになる必要がある。だから安全保障というのは、物理的にただ殺されたりしないというだけじゃなく、そういう心の中にある自分の拠り所にしているいろんなものの考え方とか、暮らし方とか、そういうものを安全保障の大事な柱にしなければいけないという、そういう形で、ですから平和に生存する権利ということも、結局は人間の安全保障と同じことなんですけども。理念的にいうと平和に生存する権利だし、実際にそれをどうするかということになると人間の安全保障の問題になる。
保障という言葉は、実は security という言葉を日本語にするときに、国の安全保障ということで安全保障という言葉ができていたので、だけど英語とか欧州の言葉で security というときには、何も保障されるか知らないけれども、安全のことなんです。だから人間の安全保障というとちょっと難しいというか、国が保障してくれないみたいになるけど、そうじゃなくて security だったら自分が自分で保障する必要があるし、いろんな保障をできる主体がある。そこのところにアイデンティティーの問題とか宗教の問題が出てくるというのが、シャーニーの言っているところです。
インタビュアー:先生はさらに、キリスト教と仏教の連帯について、ドイツのハイデルベルク大学のウルリッヒュ・デュクロー教授、この方はルーテル教会の神学者とのことですが、この方と行った対話の中で、アベノミクスのような「貪欲」な新自由主義に対する仏教とキリスト教が共に闘う考え方についてもお話しになりたいとのことですが。
武者小路氏:要するに、デュクローさんの言ったことと、デュクローさんご自身の考え方の両方について説明をします。実は、キリスト教と仏教が違っているというのを互いに認め合う必要があるのではないかということについて質問をしましたら、デュクローさんは「確かに違うところがあるかもしれない。自分はタイのチェンマイで仏教の学者とキリスト教の神学者がお互い話し合うところに行った。そこでお互いに確認できたことがある」。それは何かというと、非常に面白い歴史的な分析なんですけれども、仏教が出てきたとき、そしてキリスト教よりも前にあるユダヤ教が出てきたころ、つまり紀元前1000年ぐらいに、教祖がいる宗教が出てきた。その宗教が出てきた時代というのは、基軸宗教とか基軸文明という考え方があるんですけれども、その宗教が出てきたときの歴史的な時代というのはどういう時代かというと、2つのことが起こっていたと。その一つは世界帝国ができた時代であると。だから、エジプトに世界帝国があったり、中国に世界帝国があったり、いろいろなところに世界帝国ができて、その中心に絶対的な王様がいる、と。つまり権力ということが、それまでは要するにいろんな狩猟をしたり、いろんな物を集めたりすることから農業が出てきて、農業が出てくるといろんな広いところを耕す。耕すために水を流す。そのために大きな工事をする必要がある。そうすると大きな権力を持った国王が出てくるというのが一つ。
それから、やっぱり農業が出てくると、ただ物々交換だけじゃなくて、貨幣というものが出てきて、貨幣を基にして遠いところからいろんな物を交換する。そういう経済が出てくると。貨幣経済と帝国が一緒に出てきた。そこで新しい宗教の創始者は2つの問題と取り組まざるを得なかった。一つは権力というものをどうするか、もう一つは金(かね)の力をどうするか。それで権力については神のほうが国王よりも強い権力を持っている、絶対的な権力であるという、そういう考え方が一つ出てきて、もう一つはお金との関係では、要するにお金によって貧富の格差が出てきて、いろんな人たちが非常に困って貧困化していって、それをなくすために2つのことをやった、と。
一つは、法律を作って、それでユダヤ教の場合は7年に1回ずつ、借金を棒引きにするという制度を作った。そういう制度はヒンズー教の中でもできていた、と。もう一つは集団生活をして、それでお金を使わないでみんなで理想的な社会を作るということで、いろんな宗教の団体ができて、その団体の中にエッセネ派の洗者ヨハネのグループとかがユダヤ教の中にも出てきたし、仏教の方では僧団というのはサンガという理想的なことをする人たちだと、そういうことで両方とも同じ、宗教が生まれたときから貪欲に対して闘うことをした、と。
そういうことをデュクローさんが書いてきたんですけども、彼は他のだいぶ前、昔読んだ本がありまして、その中で欧州の人権思想というものが非常にいいものというふうに思われて、いいところもあるけれども、だけども実は(ジョン・)ロックが民主主義とか人権の一番初めのほうにあって、私もいいと思っていたら、実はロックは、人権を持っているのは、働く者は人権を持っている。そして働いてモノを作る、それによってお互いに協力できるような社会を作る。そのためには、モノを作るために所有権が、私有財産というのが大事になる。ところがロックはそのことを言って、例えば米国のインディアンは狩猟ばっかりしてて仕事をしてない、と。だからあの人たちの持っている土地は取り上げて、それをちゃんと耕すような、欧州の人たちがそれを取り上げるのは正しいことであると言うことをちゃんと言っている。私有財産権ということを言うときに非常に偏った考え方があったというようなことをずっと言って来た人なんです。
そういうキリスト教の中から資本主義が生まれた、そのいいところもあるけども、非常に問題があるという、人権ということも実はそれで植民地主義とかそういうものと一緒くたになった形で近代化が生まれたという、そこのところをどういうふうにうまく整理して、いいところは伸ばし、良くないところは反省するかという、その問題でやっぱり植民地主義の問題、今の金融資本主義の問題、そういうような問題(を考えること)がやっぱり必要になってくる。
でもその辺で一つだけちょっとすごくおかしいことなので申し上げますが、新しくローマ・カトリック教会のいわゆるローマ教皇と言われている役割を果たすことになったフランシスコというローマ司教がいるわけです。そのローマ司教は、ローマ教皇という言葉を絶対使わない。ローマ教皇というのはローマ帝国の異教の官職であって、キリストとは全然関係がない。だからそれを使わないというのはすごくいいことだと思います。
だけどもう一つ彼がやったことで本当に面白いことは、十戒の中で一番大事なことで「殺すなかれ」ということがあります、と。ところで、今のグローバルな新自由主義の経済の下で自殺をしている人がたくさん出てきて、実はその新自由主義経済は人を殺している、と。だから十戒に書いてある通り、「人を殺すなかれ」ということは、今の経済は人を殺すからダメなんだ、と。そこまで、「殺すなかれ」だから今の資本主義はダメだっていうのは、かなり乱暴な単純化だけど、でもそれはとても正しい面もある。だけどそういうようなことを言っている人たちまでもこの頃は出てきていて、そこのところでやはり世直しをしていくことについてのキリスト者の役割というものはとても大事だ、と。その一つのこととして植民地主義に反対する、そういう日本国憲法の意味があるんじゃないかということです。
インタビュアー:なるほど、ありがとうございました。
武者小路氏:どういたしまして。
武者小路公秀(むしゃこうじ・きんひで):1929年ベルギー出身。前大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター所長、元国連大学プログラム担当副学長。反差別国際運動(IMADR)副会長、大阪国際平和センター(ピース大阪)会長、大阪アジア太平洋人権情報センター(ヒューライツ大阪)会長、世界平和アピール七人委員会委員などを務める。著書に『人間の安全保障―国家中心主義をこえて』(ミネルヴァ書房、2009年)、『人間安全保障論序説―グローバル・ファシズムに抗して』(国際書院、2004年)、『人の世の冷たさ、そして熱と光―行動する国際政治学者の軌跡』(部落解放人権研究所、2003年)、『転換期の国際政治』(岩波新書、1996年)など多数。