聖餐にあずかるにあたって、注意することは何でしょうか。
聖餐にあずかるとき、私たちは、自らの罪を悔い改めなければなりません。しかし、せっかく聖餐にあずかれるのに、あまりにも自分の中に罪責感が強いのか、神様に赦されている自覚がないのか、受けたくないという人がいます。そうではありません。私たちは、神様に赦されているのです。どうして遠慮するのでしょうか。自分の罪が重すぎると思っているのでしょうか。イエス様がして下さったことを知らないのでしょうか。その特権を受け入れることがまだできないのでしょうか。イエス様の十字架による罪の赦しは、私たちがたとえどんな罪深い者であったとしても、イエス・キリストを信じるならば受けられる、神様の恵みなのです。
聖餐は、罪を赦されたという感謝と同時に、「私は天のみ国に帰ることが赦されている者なのです!」という喜びで受けるものです。あなたは、天国に帰るとき、「勝利の凱旋」の行列に加えられる者なのです(コロサイ2:15)。「私はかろうじて赦されました。天国に入れる者ではないのです・・・」という帰り方はしません。大勝利者なのですから、胸を張っていくのです。
旧約聖書には、人の中にある多くの罪が記録されています。神様が様々な解決策を提示してくださるのですが、なかなかそのとおりにいきません。
物事には必ず、原因があり、結果があります。勝利の人生を歩むためには、聖餐の意味をはっきり知る必要があります。あなたは、本当に祝福された人です。イエス様がなされたこと、神様があなたに約束されたことを拒絶しないで、全部自分のものだと言い切って受け入れて欲しいのです。
神様はアブラハムに、カナンの地をあげるとおっしゃいました。つまり、カナンの人たちは追い出されるということです。では、どうしてカナンの人たちは追い出されなければならないのでしょうか。それにもちゃんと原因があり、結果があるのです。
クリスチャン生活を送っていても、いつも祝福されると言う人、たまに祝福されると言う人、なかなか祝福されないと言う人がいます。どうしてそんなことが起こるのでしょうか。それにも必ず原因があり、結果があります。イエス様の血潮によって罪を赦され、聖餐にあずかり、すでに用意されている恵みの全てを受け取っていく人には、そのことが実現していきます。しかし、受け入れ切れない人、信じ切れない人の前では、その恵みがストップしてしまうのです。
カナンの人たちは、なぜ追い出されなければならなかったのか。ノアの箱舟が、アララト山に着いた後のことです。
「ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、言った。『のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ』」(創世記9:21~25)
ノアはハムの子カナンを呪いました。その結果、カナンは追い出されるのです。
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徐起源(そう・きうぉん)
ERM聖書学校校長。恵那クリスチャンセンター(岐阜県恵那市)牧師。恵那レーマミニストリー代表、愛知県一宮市の超教派聖会「ワールド・リバイバル・カンファレンス」の理事・講師を務めるなど、その活動は多岐にわたる。同校本部の岐阜県恵那市に加え、京都、岡崎(愛知)、沖縄、立川(東京)など全国数カ所で聖書学校、聖会をおよそ月1回のペースで行っている。インターネット聖書学校、通信聖書学校等も現在開講中。※画像は恵那レーマミニストリーのロゴ。
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