(3)具体的に解決のためにはどうするか
ではこの混乱はどうしたら避けられるのでしょうか。
① 違うものは違う字で表現してみる
汎神論の神々と唯一の絶対者が、全く同じ「神」で表現されているので混乱が起こっています。
日本語の「神」という語は、キリスト教伝来以前から使われている日本古来の言葉です。あとから入ってきたキリスト教が、神でない別の言葉を用いるべきではなかったのか。神社本庁が言うように、神道の「神」、仏教の「仏」、キリスト教は「デウス」と昔は区別されていました。
旧約聖書の「エロヒーム」や新約聖書の「セオス」も唯一の絶対者にだけでなく、偶像にも用いられましたから(共通語)、日本語に訳したら、それは「神」だということになりました。
しかし、私はこの用い方は正しいのだろうかと疑問です。
「エロヒーム」・・・力強い、頑丈な
「セオス」・・・非凡な、光り輝く
という意味の言葉です。
「あなたの信じる力強いお方はどなたですか?」と聞かれて、「はい、私は唯一のお方です」「はい、私はダゴンです」「はい、私はアルテミスです」というふうに答えたとしても、「エロヒーム」「セオス」の意味からすればおかしくはないと思います。しかし、これを日本語にしたら「神」だというのは当たっていないと思うのです。
「神」は汎神論の「神」なので、西田哲学が否定した芸術家の立場のものではありません。この神を唯一の絶対者に用いることは混乱を招きます。キリスト教会側のひとり決め、と言えるのではないでしょうか。
②「創造主」で表現してみる
(ⅰ)聖書の神は、西田哲学が否定している、芸術家と芸術作品の芸術家の立場ですから、神と訳すことは混乱を招くことになります。
ですから、聖書の神は、汎神論の神と訳さず、芸術家の立場・「つくりぬし」を表す言葉に訳したほうが混乱はしないと思います。
この西田哲学が否定している世界観が、実は聖書の世界観です。呼び名の問題だけでなく、世界観までが違うのです。
神と宇宙とは、聖書では、決して一つにならない「つくりぬし」と「つくられたもの」という全く違う存在ですから、同じ「神」に訳したことで聖書の世界観が伝わらないで、神論争が起こってしまっています。
この点の重大さにキリスト教の方が気づかないと、聖書の世界観は理解されないで、感情論的立場だけを残すことになります。100年やってきて、まだ1%にもならない理由をもっと真剣に考える必要があると思います。小手先のテクニックでなく、本質的に何か重大な問題があると気づくべきではないでしょうか。
(ⅱ)聖書の世界観は、つくりぬしとつくられた世界という全く質を異にする二元的な世界観です。創造主が存在しないと世界は存在できません。世界がなくても創造主は存在できます。汎神論とは全く異なる世界観です。
このことは何回も確認しておく必要があります。この世界観の違いに気づかずに、神の名の説明だけでキリスト教は育たないと思います。
「マッカーサー元帥が日本占領のとき、日本のキリスト教化に対して非常に熱心だったと言われています。そして神道指令を出して、『国家神道』を禁止しました。これで、キリスト教徒が増えるだろうと思ったようです。ところが、日本人の多くのものが、キリスト教徒にならず、その代わりに、いろいろの神の名のもとに、新興宗教が雨後の竹の子のように現れて、キリスト教徒は増えなかったと伝えられています」(工藤美代子『マッカーサー伝説』(光文社)より)
これは、キリスト教にとっては非常に大切なことだと気づく必要があると思うのです。日本には、創造または創造主という「つくりぬし」と「つくられた世界」という考え方がなく、神=宇宙ですし、いろいろな神があるわけですから、国家神道が否定されたので他の神々にとってかわった、というところです。
日本はまさに汎神論の世界なのだと思い知らされた出来事だったと思います。今も同じことで、現在はいろいろな神様が活発に活動していますので、唯一の神という伝道法はますます困難になってきています。
この方法では、相手の神を否定しなければこちらの神にならないわけです。ですから、相手を否定する伝道という構図になってしまい、信じるよりかえって反発をかう方法が、キリスト教の伝道法として続けられてきたと言えます。その結果、キリスト教のよさは全く伝わらず、クリスチャンは孤立してしまっているのです。
創造の概念を伝え、創造主とつくられた世界という二元的世界観を広めることが先ず、第一に必要です。相手を否定しただけでは新しいものは始まりません。新しい考えは新しいコトバを必要とします。
③「神々」対「神」
日本は汎神論の国ですから、「神」という言葉で神々を否定して唯一の神を伝えることになります。相手を否定しないとこちらの考えは伝わらない仕組みになっていることを気づくべきです。
④「神々」対「創造主」
いのちの仕組みのスゴサ、創造主の知恵と力のスゴサなどを伝えて、つくりぬしの存在を理解してもらい、つくられた世界との二元的関係を理解してもらうように努めます。
相手の否定でなく、現実の世界への認識を深めてもらう努力をすることによって、反発よりむしろ感動をする人々が増えました。
神と仏と創造主
仏教では、人が死ぬと仏になったと言います。神道では人が死んで、業績が人並み外れていると神になります。たとえば、靖国神社など、兵隊が死んで神として祭られます。仏といえば仏教とわかるし、神といえば神道とわかります。
ところがキリスト教では、天地万物の創造主を神と訳したものですから、キリスト教の真実の姿が人々に伝わりません。神と聞くと人々は神道の神を連想するからです。
仏と聞けば仏教だとわかるように、神と聞いてキリスト教だとわかるかというと、一般の人々、日本人の99%の人は、神と聞いたら汎神論の神を連想するでしょう。
ですから、その言葉を聞いたらキリスト教と思うような呼び名が用いられることが、聖書の教えやキリストの教えを広めるよい方法だと思うのです。
神でもなく、仏でもない、唯一の絶対者をお呼びするのにふさわしい呼び名でお呼びした方が良いと思うのです。創造が事実であることが実証されてきていますので、創造主(つくりぬし)とお呼びすることで、神道でも仏教でもないものとして理解されると思うのです。(続く)
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堀越暢治(ほりこし・のぶじ)
宇都宮大学農業土木科卒業。日本基督神学校卒業。学校法人東京キリスト教学園名誉理事。学校法人グレイス学園めぐみの園理事長。単立・創愛キリスト教会主任牧師。著書に『人体の不思議発見』『大自然の不思議発見』など多数。
■ 外部リンク:「ノアの箱船記念館 設立準備会」ホームページ