「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています」(ローマ6章6節)
私たちは新しい人と古い人を区別しましょう。罪を犯すのは古い人。新しい人はイエス様。神様はあなたを二つに分けて、古い人の部分をイエス様の十字架で処理し、あなた自身は新しい人で生きなさいと言っているのです。
クリスチャンは新しい自分で考えるのです。病人に手を置けば治るというのは、新しい人ならばできるでしょう。もっと言うならば、イエス様ならできるでしょう。だったらイエス様があなたのうちに生きておられるなら、できるではないですか。イエス様があなたの必要を満たすことができるなら、あなたは満たされるでしょう。イエス様があなたのうちに生きておられるのです。
「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい」(ローマ6章11節)
この「思いなさい」は計算しなさいということです。私たちには悪いことをする自分があるけれど、イエス様が生きているなら、そして私が死んでいるなら、計算上、「私は正しい、決して罪に定められない」、こういう者だと計算しなさいということです。
私たちの未来に犯す罪もイエス様が払ってくれた分で十分まかなえるので、「私は罪に定められない」。もちろん罪があれば告白してください。
パウロにも罪を犯す性質がありました。それをパウロも認めています。あのパウロが自分の中に悪が宿っていることに気付いているのです。皆さんもそれに気付くことがあるかもしれません。クリスチャンなのになんでこんなことを思うのか。なんでこんなことをやってしまうのか、言ってしまうのか。そういうことがパウロにもあったのです。
ところがそのパウロが決して罪に定められないと言っているのは、古い自分が死んだということをはっきりととらえられているからです。パウロはどう言っているでしょうか。
「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです」(ローマ7章19~21節)
でも、ローマ8章1節では「罪に定められない」と言い切っているのです。私たちはイエス様を見上げて素晴らしい恵みの中に入っているのです。私たちは、聖い、傷のない、非難されない者、完全に救われる者なのです。私たちはイエス様ゆえに完全に救われるのです。
「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」(ヘブル7章25節)
イエス様は身代わりになるだけではなく、とりなしまでしてくださる。「私は彼の罪、彼女の罪のために血を流しました。だから、彼らには罪はありません」と言ってくださるのです。
では、言いましょう。「私は罪を取り除かれているので神を見ても死にません。私は新しい人です。新しい自分はキリストです。キリストのように考え、キリストのように信じ、キリストのように神の愛を受ける人です。イエス様の名前で、アーメン」
ですから、皆さん。神様はあなたに、イエス様に言われたようにこう言っておられるのです。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である」(Ⅱペテロ1章17節)。
言ってみましょう。「神は私を喜んでおられます。神は私を愛しています。罪を犯しても古い人がやったことなので愛されています」。
私たちは放蕩息子のように、父なる神のもとに帰ることができるのです。感謝します。
■ 罪に定められることは決してありません: (1)(2)(3)(4)
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徐起源(そう・きうぉん)
ERM聖書学校校長。恵那クリスチャンセンター(岐阜県恵那市)牧師。恵那レーマミニストリー代表、愛知県一宮市の超教派聖会「ワールド・リバイバル・カンファレンス」の理事・講師を務めるなど、その活動は多岐にわたる。同校本部の岐阜県恵那市に加え、京都、岡崎(愛知)、沖縄、立川(東京)など全国数カ所で聖書学校、聖会をおよそ月1回のペースで行っている。インターネット聖書学校、通信聖書学校等も現在開講中。※画像は恵那レーマミニストリーのロゴ。
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