どうやって私たちの罪がイエス様によって取り除かれたのか。なぜイエス様を信じるだけで、罪が取り除かれるのか。アダムの罪があるために、私たちは以下のような者でした。
「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」(エペソ2章1~3節)
自分の罪科とアダムの罪の中で死んでいた、神との霊的な関係が断たれている者であり、生まれながら御怒りを受ける者でした。その私たちが、どうして罪を取り除かれ、祝福されていくのか。
それは、神の知恵です。神は、私たちを救うために、天地万物を造る前からある計画を持っておられました。これが、私たちのための、あなたのための計画です。
「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」(エペソ1章4~5節)
アダムの罪と私たちの罪で苦しんでいた者を、神は「聖く、傷なく、非難されるところのない者」(コロサイ1章22節)にしようという計画、そしてご自分の子どもにしようという計画を立てられました。
そして、それをどのように実行なさるのでしょうか。「彼(キリスト)にあって選び」です。旧約の人々は、神の前に立つとき命がけです。罪あるものが神を見たら死んでしまうからです。私たちは、死ねば天国に行きますが、神を見ても死なない。どうしてでしょうか。
今日のあなたの姿、一カ月のあなたの行動を見るとき、決して正しい者だと言い切れないかもしれない。一年の間に、自分は罪人だと思うことがしばしばあるかもしれない。それでも、私たちが天国に行けるのはなぜか。この神の計画、イエス様の身代わりによって、私たちの罪が取り除かれるという計画によるのです。
どうして罪が取り除かれるのか。日々の生活を見るとき、私たちは神に喜ばれないことをやってしまう。それなのに、なぜ赦されるのか。
聖書には、遊女や取税人、罪を犯す者が先に天国に入っているとあります。なぜ彼らが天国に入っていけるのか。それを知るとき、私たちは本当にイエス様の恵み、神の知恵を感謝するのです。
神は私たちをこのように例えています。イエス様は夫であり、教会は花嫁です。教会とは、私たちの集まりです。そして夫と結婚した妻は、夫の地位、名誉と同じものとみなされます。遊女と取税人がなぜ天国に行けるのか。彼らは正しくない。では、どうして正しくないのに、正しい者になるのか。夫イエス様が聖いから、妻である遊女、取税人は聖いのです。私たちが罪ある者であっても、イエス様と一体となる者であるなら聖い者である。なぜなら、夫と私たちは一体であるからです。
私たちは日々の生活の中で自分を責めてしまう。自分は正しくない、これでもクリスチャンか、人が見ても、それでもクリスチャンかと思われる事があるかも知れない。
でも、私たちは正しいからクリスチャンなのではない。良いことをするからクリスチャンなのではない。罪人だから、イエス様が必要なのです。罪人だからイエス様によって救われるのだ、ということを知っていきましょう。
クリスチャンとして、私は人につまずきを与えるかもしれない。でも、だからこそイエス様が必要なのです。医者を必要とするのは病人です。イエス様を必要とするのは罪人なのです。私は罪人だから、イエス様を必要としているのです。
悪魔にだまされてはいけません。今日、しっかりその恵みに預かっていきたいのです。
「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした」(エペソ4章22~24節)
私たちは古い人と、新しい人をしっかり知らなければいけません。聖書はあなたを古い人と新しい人に分けています。古い人はあなたの性質を持っています。サタンの性質です。私たちは、それを日々の生活の中で見ます。まだ天国に行っていないので、古いものを持ちながら生きているのです。でも新しい人は、神にかたどり造られた人イエス様。クリスチャンは、イエス様を着ている者なのです。
私たちは、自分の考えを変えなくてはいけません。聖書は、あなたがイエス様を信じた時、あることが起きたと語ります。あなたは依然として、以前の自分を持っているかもしれません。だけど霊的に言うならば、あなたの古い人は死んでいる。死んだ人は裁かれません。前科何犯とか拘留何日、実刑何年とかいうことは、死んだ人にはありません。
イエス様が身代わりに死なれたことによって、古い自分は死んだのです。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」(ガラテヤ2章20節)
あなたがイエス様を信じた時、アダムの罪を持ったあなたは、十字架で死にました。あなたは、もはや生きていないのです。日々の生活の中で、昨日罪を犯した自分がいるかもしれない。でも、そのあなたは死んでいると、言っているのです。今は、キリストがあなたのうちに生きておられる。
今日知って欲しいこと、確認したいことがあります。クリスチャンとは、古い人を自分で新しくしようと努力する人ではないのです。古い自分のままで聖く生きようとすることではない。キリストが、私の中に生きておられる。つまり、キリストが聖いなら、私は聖い、という信仰で生きることなのです。
ついさっき罪を犯したかもしれない。でも、イエス様によって罪は取り除かれている。自分は死んで、キリストが生きているのだと確信することです。ですから、あなたは「聖く、傷なく、非難されるところのない」者であり、いつでも胸を張って生きていける。だから、勝利の道を歩んでいける。このように言っているのです。
そのことをパウロは言いました。
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ8章1節)
聖書ははっきりと言っています。イエス様を信じたあなたは、決して罪に定められることはない。なのに、私たちは自分で罪に定めているのです。私はあれをやった、これをやったと。そうではなく、キリストが死なれ、あなたの罪を、あなたがこれから犯す罪をも取り除いているので、あなたには罪がない、と言っているのです。
言ってみましょう。「私はイエス様の身代わりによって罪を取り除かれたので、決して罪に定められない。アーメン」。だから天国に行けるのです。
聖餐式のとき、何に感謝するのか。私たちは、イエス様のおかげで罪を取り除かれ、罪の無い者になったがゆえに、胸を張り、天のみ国に入っていける者なのです。私たちは新しい人になったのです。以前のままで生きているのではありません。あなたは、別人になったのです。あなたは神に愛されている者であり、祝福された人なのです。それをあなたが信じ切ったとき、それを体験していくことでしょう。
■ 罪に定められることは決してありません: (1)(2)(3)
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徐起源(そう・きうぉん)
ERM聖書学校校長。恵那クリスチャンセンター(岐阜県恵那市)牧師。恵那レーマミニストリー代表、愛知県一宮市の超教派聖会「ワールド・リバイバル・カンファレンス」の理事・講師を務めるなど、その活動は多岐にわたる。同校本部の岐阜県恵那市に加え、京都、岡崎(愛知)、沖縄、立川(東京)など全国数カ所で聖書学校、聖会をおよそ月1回のペースで行っている。インターネット聖書学校、通信聖書学校等も現在開講中。※画像は恵那レーマミニストリーのロゴ。
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