「これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である」(ローマ11章27節)
イエス様は罪を取り除くために来られたのです。私たちは意識を変えていきましょう。罪を犯して「あ~、こんな事しちゃった」と自分を責めるのはやめましょう。私たちは罪を取り除かれた者なのです。
聖餐に預かるということは罪のない者であり、私の過去の罪が無くなっているということです。もっと言うならば、未来の罪までも払って下さっていることを感謝するときなのです。他にも書いてあります。
「もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです」(ヘブル9章26節)
イエス様は何をしに来られたのでしょうか。罪を赦しに来たのではなく、罪を取り除きに来られたのです。
イエス様は罪のない方です。その方が十字架で罪となられたということはどういうことなのでしょうか。
どこかにイエス様の罪があるのか。イエス様にはどこにも罪がありません。そうではなく、私の罪であり、あなたの罪です。全人類の罪をイエス様が背負われたならば、あなたの罪も取り除かれているのです。
あの動物の血というようなものではなく、また、毎年いけにえをささげたのですが、それをする必要もない。イエス様が永遠のあがないをなされたゆえに、私たちは赦されているのです。
なぜ動物の血は完全に私たちを赦せなかったのか。それは人間が作った天の模型のところで血を捧げていたからです。
でも、イエス様は十字架に架かったあと、復活して、そのイエス様の血潮をどこに持っていかれたのですか。ヘブル9章12節には「まことの聖所」にその血を持っていかれたとあります。読んでみましょう。
「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブル9章12節)
天の神のみ座に、イエス様の代価の血を持っていかれて、私たちは永遠にあがなわれたのです。
言ってみましょう。「私たちは永遠のあがないを受けています、アーメン」。
私たちはもちろん日々の生活の中で罪を犯します。しかし、罪を犯しても、また父のもとから出ていくというような者ではない。
どういう原理によってそうなのかということをはっきり知っていきたい。日々の生活の中で、自分はクリスチャンらしいことができない。そのようなことで苦しんでいるかもしれませんが、事実そうなのです。私たちには正しい事ができないのです。ましてやクリスチャンでなければそうです。
正しい者は一人もいないと書いてあります。罪のない人は一人もいないのです。
「それは、次のように書いてあるとおりです。『義人はいない。ひとりもいない』」(ローマ3章10節)
人間にはどうにもできないからイエス様が来てくださったのです。あなたはあなた自身を救うことができないのです。あなたは自分を変えることができないのです。あなたはあなたの悪癖を直すことができないのです。だからイエス様が来てくださったのです。
私もイエス様を信じる前は、自分の中に希望がなかった。「できない、できない、できっこない」。こう思っていたのです。ところがイエス様を信じた時、私は新しい人になったのです。
どういう新しい人でしょうか。罪取り除かれた新しい人になったのです。あなたは過去にこんな事をした、昨日、さっき、こんな事をした。こう言って悩んでいませんか。こういう人は、罪を犯したら告白しましょう。告白したら、イエス様が全部払ってあるのでその効果が及ぶのです。契約が及んでいくのです。
私たちは正しい事をしたいのだけど、やり続ける事はできないとはっきり知りましょう。しかし、私たちは正しい事をやりたいという心を持ちましょう。自分でできなくても、イエス様が取り除いて下さったゆえに、罪を犯すたびに告白するのです。イエス様の血潮はすべての罪をきよめたのです。
「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1章7~9節)
「私は罪がない」と言う人がいるならば、それは神を偽り者にしているのだということです。私たちは罪人なのです。ところが、イエス様のその血潮によってすべての罪からきよめられている。すべての罪からきよめて下さっているゆえに、その十字架のゆえに、罪赦されているのではなく、罪が取り除かれている。罪のない者になっているということです。
日々の生活の中で罪を犯さないように頑張るのではなくて、―頑張っても罪を犯すのです―それがイエス様によって赦されている。そして神に喜ばれる生き方をしていこうと、自分でできないならこうするのです。「変えてください」と祈るのです。
私たちは神を信じています。いつも言いますが、信仰とは何でしょう。まだ成っていないことを信じることです。それをあなたが信じていることではなくて、信仰とは信頼なのです。
「何でもできる神は、私を変えることができる」という信頼です。「何でもできる神は私を将来において必ず成功させてくださる」という信頼です。私はそれを信じ切れるとか、私には確信があるとか、その言葉以上に、神に信頼することです。
私は神を信じているから、この問題は絶対に解決される。「私自身は決して正しくないのだけれど、このような者でもイエス様の血潮によって罪が取り除かれており、天のみ国にいくことができる者だ」という信頼です。「罪を犯すことがあっても落ち込む必要はない。正しい事ができなくても落ち込む必要はない。神はそんな私を助けてくださる」。こう確信することです。(続く)
■ 罪に定められることは決してありません: (1)(2)(3)
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徐起源(そう・きうぉん)
ERM聖書学校校長。恵那クリスチャンセンター(岐阜県恵那市)牧師。恵那レーマミニストリー代表、愛知県一宮市の超教派聖会「ワールド・リバイバル・カンファレンス」の理事・講師を務めるなど、その活動は多岐にわたる。同校本部の岐阜県恵那市に加え、京都、岡崎(愛知)、沖縄、立川(東京)など全国数カ所で聖書学校、聖会をおよそ月1回のペースで行っている。インターネット聖書学校、通信聖書学校等も現在開講中。※画像は恵那レーマミニストリーのロゴ。
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