一人の人間の中に良心があって目覚めている。この良心の警告に人は従わなければならない。もし良心の警告に聞き従わないとすれば、人間失格、すなわち人格崩壊である。見張る人がいなくて良いほどイスラエルが立派な人たちばかりでなかったことを残念がるには及ばない。眠っていても警告が与えられた時、目覚めれば良い。預言者が戒める時、これに聞き従えば良いのである。もし、その戒めを余計なこととして聞き流すならば、それは一つの体をなすイスラエルとしては崩壊である。
新約の教会においても似たような事情がある。教会はイスラエルと違って全員目覚めているべきであると言って良いが、教会全体がこの世に対して見張り人である。しかし、ある意味では見張りの者だけを残して、後の人が休むことはある。だが、起きるべき時には全員起きなければならない。良心が揺り起こしても起きない人のように、見守る者の警告を聞き入れないようなことでは、救いの道を自ら閉ざすことになろう。
「わたしに代って彼らを戒めなさい」。神が直接に警告を語りたもう場合もあろう。天使や自然現象、あるいはシロアムのやぐらが倒れて18人が一挙に死ぬというような災いも警告として聞き取らなければならない。ルカ伝13章5節で聞いたように、「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。しかし、神は特別の場合を除いて、人間を代理人として立てて、悔い改めを促したもう。これが預言者である。
人は悔い改めによって神の国に入っていくのであるが、我々自身について見られる通り、悔い改めの機会が与えられているにもかかわらず、それにまったく無頓着で、あるいはこれをことさらに無視して悔い改めない場合がほとんどである。そこで、神は特定の人間をご自身の代理人として立てて悔い改めを促される。天地の徴しによっては、何とも感じなかった人も、人間の口を通して警告を与えられれば、知らなかった、気が付かなかった、とは言えない。これは旧約においても、新約においても、共通する定めである。
預言者とは、将来のことを言い当てる人ではない。そういう人がいると便利だから、人々はいろいろなことを聞きにくる。だが、本当の預言者とは神の言葉を預かって、神に代わって語る人である。アモス書3章7節に「まことに主なる神は、そのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない」とある通り、神はなさんとすることをあらかじめ預言者を通じて語りたもう。その御業を受け入れるために、人は悔い改めなければならない。そこで、「あなたはわたしに代わって彼らを戒めなさい」と命じられる。
次の18節は今日学ぶ箇所の中での主要部分である。「わたしが悪人に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、あなたは彼の命を救うために彼を戒めず、また悪人を戒めて、その悪い道から離れるように語らないなら、その悪人は自分の悪のために死ぬ。しかしその血をわたしはあなたの手から求める」
神のなしたもう御業は、要するに救いを全うすることである。したがって、預言者を通じて語られる言葉は基本的には救いの言葉である。しかし、救いのために滅びの言葉が語られる場合が非常に多い。すなわち、悔い改めを通じてでなければ、救いに入れないのだから悔い改めを促す警告が必要なのである。そこで、悪人が救いに入るには、先ず、「あなたは必ず死ぬ」と警告される。その衝撃によって悪人は翻然と我に立ち返って悔い改める。そして救われる。例えば、イザヤ書38章1節で預言者イザヤはユダの王ヒゼキヤを訪れて「主はこう仰せられます、あなたの家を整えておきなさい。あなたは死にます、生きながらえることはできません」。この言葉を聞いてヒゼキヤは一心に祈り、災いを免れた。では、あなたは必ず死ぬ、と言われたのはうそであったのか。結果としてはうそになったと言えるかも知れないが、こう言わなければ悔い改めない人にこう語られたのはうそではない。うそにならない程度にゆるやかに言っていては聞き流されてしまう。ハッキリ「あなたは死ぬ」と言わなければならない。
ここに預言者の苦衷がある。例えばヨナの場合である。ヨナは40日を経たらニネベは滅びる、と預言した。それでニネベの人々はみな悔い改めをした。そして40日経ってもニネベは滅びなかったのでヨナは死ぬほど苦しんだ。ヨナにはこうなることがわかっていた。だから、初めニネベに行けと命令された時、これを拒否し、神の顔を避けてタルシシに逃れようとしたではないかとヨナは訴えているのである。
エレミヤの場合も同じである。エレミヤ20章7、8節で言う、「主よ、あなたがわたしを欺かれたので、わたしはその欺きに従いました。あなたはわたしよりも強いので、わたしを説き伏せられたのです。わたしは一日中、物笑いとなり、人はみなわたしをあざけります。それは、わたしが語り、呼ばわるごとに、『暴虐、滅亡』と叫ぶからです。主の言葉が一日中、わが身のはずかしめと、あざけりになるからです」。エレミヤはエルサレムの滅亡を預言するが、この町は安泰に見える。人々はエレミヤの預言を聞いて笑いこける。エレミヤの場合、うそを言うと見る人がいたが、やがてエレミヤの警告の通りエルサレムは滅亡した。
預言者がうそを言ったと批判する人がいるかも知れないが、警告されて立ち返った本人はそうは考えず、ここに神の真実があると考える。警告を聞かない人には予告通りのことが起こる。それでも、実現までは時間がかかるわけで、その間、預言者は苦しまなければならない。それは預言者の使命に関わる苦しみなのだ。避けることはできない。
神が悪人に「あなたは必ず死ぬ」と警告される時、預言者はその警告を忠実に伝えなければならない。それが相手の人の救いのための奉仕である。しかし、この警告は幸い仕事である。警告された人は警告を恨む。しっぺ返しをする。人と争いたくないのが人情であるから、預言者も人間として、こういう警告を与えるのを避けたい。(続く)
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渡辺信夫(わたなべ・のぶお)
1923年大阪府生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。文学博士(京都大学)。1943年、学徒出陣で敗戦まで海軍服役。1949年、伝道者となる。1958年、東京都世田谷区で開拓伝道を開始。日本キリスト教会東京告白教会を建設。2011年5月まで日本キリスト教会東京告白教会牧師。以後、日本キリスト教会牧師として諸教会に奉仕。
著書に『教会論入門』『教会が教会であるために』(新教出版社)、『カルヴァンの教会論』(カルヴァン研究所)、『アジア伝道史』(いのちのことば社)他。訳書にカルヴァン『キリスト教綱要』『ローマ書註解』『創世記註解』、ニーゼル『教会の改革と形成』『カルヴァンの神学』(新教出版社)、レオナール『プロテスタントの歴史』(白水社)他。