3章16~27節によって
エゼキエルは預言者としての召命を受けた時、圧倒的な神の威光に打たれた。それには逆らうことができない。神は「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの民、すなわちわたしにそむいた反逆の民につかわす」と言われた。彼の使命がいかに困難であるかが十分わかる。神は「わたしはあなたの額を岩よりも堅いダイヤモンドのようにした。ゆえに彼らを恐れてはならない」と命じられた。エゼキエルは人々を恐れることも許されない。ただただ神の器として使命を遂行するほかない。
こういうことがあって、7日間エゼキエルは茫然自失して、悦惚状態で、テルアビブにいる捕囚の中に座り込んだまま動けなかった、と15節に書かれていた。余りにも強烈な体験をしたから精神が正常でなくなったと考えられる。
16節に、「七日過ぎて後」とあるのは、先の体験から1週間後ということである。1週間、驚きあきれていたが、8日目には正常に戻ったということであろうか。あるいは、まだ茫然とした状態が続いていたのに、主なる神が第二撃を与えたもうたということなのか。どちらともわからないし、どちらでも良い。
主が7日過ぎて再びエゼキエルに働きかけたもうたことは、我々にもわかるのではないか。7日目に我々は神の言葉を聞きに集まってくる。そこで神の圧倒的な御言葉を体験する。キリスト者たちが日曜日のことを「主の日」と呼ぶようになったのは非常に古い。ヨハネの黙示録1章10節にもうこの言葉が使われる。神は毎日ともにいてくださるのではないか。確かにそうなのだ。日曜日だけが神の実在の日で、あとの6日は神不在の日だというわけではない。それでも、御言葉に圧倒されるという出来事は、通常、主の日に集中的に起こるのが主の御旨である。途中の日がどうでも良いという意味ではないが、今ここでは7日目に起こる出来事を大事にすることを学んでおきたい。
さて、7日の後に与えられた第二の託宣は第一のそれと比べてずっとまとまっているし、ずっと理解しやすい。これはエゼキエルを打ちのめし、精神を目茶目茶にするような強烈なものではない。意味は峻厳であるが、エゼキエルはずっと冷静に御言葉を聞き、これを悟ることができた。これは預言者の使命について我々にも良くわかる教えである。
この16~19節はそのまま33章7~9節に出ている。その部分がここに紛れ込んだのではないかと言う人がいるが、3章20、21節が18章24、25節と33章18、19節とに重なって出てきていることを考えると、重要なことだから繰り返されたと見るべきではないか。
17節に主は言われる。「わたしはあなたをイスラエルの家のために見守る者とした。あなたはわたしの口から言葉を聞くたびに、私に代わって彼らを戒めなさい」。
「見守る者」とは見張り人、あるいは夜回りである。町の人々が眠っている間も、見張り人は目を覚まし、望楼に立って見張っている。彼は時刻を知っている。イザヤ書21章11節に「夜回りよ、今は夜のなんどきですか」という言葉があるが、彼は今の時がなんどきであり、あとどれだけすれば朝になるかを知っていて、問い合わせがあれば答える。
同じイザヤ書21章6節に「行って、見張りびとをおき、その見るところを告げさせよ。馬に乗って二列に並んだ者と、ろばに乗った者と、らくだに乗った者とを彼が見るならば、耳を傾けてつまびらかに聞かせよ。その時、見張びとは呼ばわって言った、「主よ、わたしがひねもすやぐらに立ち、夜もすがらわが見張所に立っていると、見よ、馬に乗って二列に並んだ者がここに来ます』。彼は答えて言った、『倒れた、バビロンは倒れた。その神々の像はことごとく打ち砕かれて地に伏した』」。見張りの人はやぐらの上に立って見張っていて、歴史の動きをいち早くとらえるのである。見張り人が人々と同じように眠ってしまっては話にならない。イエス・キリストは我々一同に目を覚ましていなさいと言われたので、キリスト者はみな見守る者でなければならない、と言ってよいであろう。
神はエゼキエルに「あなたをイスラエルの家のために見守る者とした」と言われたが、イスラエル全家に責任があるという意味である。ほかの人は眠っていても、あなたは目覚めているのだと言われる。
目覚めているのが善人で、眠っているのが悪人、というふうに人間を二分して良いかもしれない。Ⅰテサロニケ5章6節に「だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう」と呼びかけられている。しかし、エゼキエル一人が目覚めて、後の人がみな眠っていたとしても、エゼキエルだけが救われる義人だと見てはならない。眠らないのはイスラエルの家での預言者の務めなのだ。イスラエルのみながみな、目を覚ましているのでなくても良い。眠る人があっても良い。しかし、見守る者が戒めを与える時には聞いて、目を覚まさなければならない。(続く)
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渡辺信夫(わたなべ・のぶお)
1923年大阪府生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。文学博士(京都大学)。1943年、学徒出陣で敗戦まで海軍服役。1949年、伝道者となる。1958年、東京都世田谷区で開拓伝道を開始。日本キリスト教会東京告白教会を建設。2011年5月まで日本キリスト教会東京告白教会牧師。以後、日本キリスト教会牧師として諸教会に奉仕。
著書に『教会論入門』『教会が教会であるために』(新教出版社)、『カルヴァンの教会論』(カルヴァン研究所)、『アジア伝道史』(いのちのことば社)他。訳書にカルヴァン『キリスト教綱要』『ローマ書註解』『創世記註解』、ニーゼル『教会の改革と形成』『カルヴァンの神学』(新教出版社)、レオナール『プロテスタントの歴史』(白水社)他。