2章8節~3章15節によって
祭司エゼキエルが預言者としての召しを受けた時、文章で言い表すのが困難な、奇怪という他ない幻を見た。イザヤが召命を受けた時の幻の体験も、ただならぬものであったが、エゼキエルの見た幻はもっと不気味だ。それは精神に異常を来たした者の幻覚、あるいは恍愡の異常心理の状態ではないかと言われるかも知れない。だが、そうではない。彼は全く正常な、理性ある、覚めた人間として自分の召命と派遣を記憶している。ただし、彼の体験はこのように書き表す他ない特別なものであった。これを我々の生活感覚に当てはめて理解しようとしても不可能なのである。
召命を受けて、派遣された彼自身はどうであったか。3章15節の終わりに「7日の間、驚きあきれて彼らの中に座した」と書かれているように、テルアビブに連れて行かれて、7日間回復できないほどの精神的打撃を受けて混乱していたのである。テルアビブという場所についてはわからない。初めいた場所がそれだったとも考えられる。その7日間はものが言えなかったのである。我々にも正確に彼の体験を把握することは困難である。我々にわかるのは、彼が神の栄光の輝きに圧倒されたということだけである。
彼は5年前にエホヤキン王とともにバビロンに捕らわれてきた。祭司であったから、エルサレムにいた時は神殿に仕えていた。バビロンに捕らわれたある人は、「わたしはかつて祭りを守る多くの人と共に群れをなして行き、喜びと感謝の歌をもって彼らを神の家に導いた。今これらの事を思い起して、わが魂をそそぎ出す」と詩篇42篇で歌ったが、エゼキエルも神の栄光を見ることがなくなって既に久しいと慨嘆していたであろう。ところが、ケバル川のほとりで見たのは、エルサレムで見たよりも遥かにまばゆく、強烈で、彼の存在を揺り動かす神の栄光であった。ここで神の栄光を見るとは思いもよらなかった。
エルサレムから遠く引き離された人々は、神が遠くにおられることと、呼んでも答えたまわない神の沈黙に深い痛みを感じていたのである。しかし、エゼキエルは栄光の神がバビロンの地にもいますこと、バビロンにおいても語りたもうこと、それのみか彼を用いて語らせたもうことを、ここで一挙に体験するのである。これは単に大事件というものではなく、エゼキエルの召命というだけでなく、栄光の神との出会い、神の言葉との出会いであった。
これは思い出に残る宗教体験というようなものではない。この出来事によってエゼキエルの生涯は前後が分断された。すでに祭司であって、人々よりも宗教的使命に生きる人と見られていたのであるが、これまでの経歴はほとんど無視されて、今や神の人とされる。
さて、エゼキエルの見た幻は、奇怪な、不可解なものであったが、彼に語りかけられた神の言葉は、極めて明快であった。謎のような表現は何もない。だから良くわかるとは必ずしも言えないのであるが、我々の理解を許さず、理解を拒絶する言葉ではなく、むしろ理解を命じる言葉である。
8節に先ず言われる、「人の子よ、わたしがあなたに語るところを聞きなさい」。神はエゼキエルに呼びかける時、つねに「人の子よ」と言われる。これがエゼキエル書の特色ある言葉遣いでないことは言うまでもないが、預言者に対してこのように呼ぶのはエゼキエル書の特色である。「人の子」とは単純に「人」という意味であると取って良い。エゼキエルは神の呼びかけを聞くたびに、自分が人の子であることを確認せざるを得なかった。すなわち、彼は人の子に過ぎないのである。人間としての限界のもとに置かれている。
1章で見たように、数々の奇怪な生き物が登場する。それらは神の御座近くに仕え、御座を移動させ、飛び駆けることができ、光り輝き、人間よりも遥かに力がある。にもかかわらず、神はそれらの生き物、すなわち天使といって良いが、その天使を御言葉の仕え人として召して、派遣することはなさらないで、様々の弱さを抱える人の子を召して、派遣したもう。
エゼキエルは祭司であったが、神は祭司エゼキエルよ、とは言っておられない。彼が祭司であったことに何の意味もなかったというのではないが、彼は祭司であるよりも先ず、ただの人の子であった。祭司であるから他の人以上に神の仕え人たるに相応しく用意されていたというのではない。
次に、「聞け」と言われるが、これは、聞いて、理解して、服従し、実行せよ、という意味である。「反逆の家のようにそむいてはならない」と言われるが、反逆の家という言葉は、5節から7節にかけて繰り返された。その前に3節には同じ含みで反逆の民という言葉があった。この後、3章9節にも、3章26、27節にも繰り返される。12章1、2節でも繰り返される。これはエゼキエル書特有の表現と言って良いだろう。
神はエゼキエルに、反逆してはならない、忠節を尽くせ、と言われただけでなく、あの民のように、あの家のようになってはならない、と言われた。彼らと同調してはならない。彼らの側に立ってはならない。それよりは、彼らに対して立ち向かわなければならない、という意味である。(続く)
◇
渡辺信夫(わたなべ・のぶお)
1923年大阪府生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。文学博士(京都大学)。1943年、学徒出陣で敗戦まで海軍服役。1949年、伝道者となる。1958年、東京都世田谷区で開拓伝道を開始。日本キリスト教会東京告白教会を建設。2011年5月まで日本キリスト教会東京告白教会牧師。以後、日本キリスト教会牧師として諸教会に奉仕。
著書に『教会論入門』『教会が教会であるために』(新教出版社)、『カルヴァンの教会論』(カルヴァン研究所)、『アジア伝道史』(いのちのことば社)他。訳書にカルヴァン『キリスト教綱要』『ローマ書註解』『創世記註解』、ニーゼル『教会の改革と形成』『カルヴァンの神学』(新教出版社)、レオナール『プロテスタントの歴史』(白水社)他。