巻き物に関してもう一つ思い起こす事件はエレミヤ書36章であるが、エゼキエルの召しとそう違わない時期に、エルサレムでエレミヤは神から授かった全ての預言をバルクの手によって巻き物に書き留めさせた。前述の書記官シャパンの息子ゲマリヤの部屋でこの巻き物を民に読んで聞かせ、また王エホヤキムにも読んで聞かせた。ところが王はこの巻き物を小刀で切り刻んで、炉に投げ入れて燃やしてしまった。巻き物を燃やせば神の言葉を聞かなくて済むと思ったのである。エレミヤの巻き物はエゼキエルのそれと内容的に似ていたであろう。すなわち、表にも裏にも文字が書いてあって、それは悲しみと嘆きと災いの言葉であった、と言う。すなわち、幸いな言葉、福音ではなかった。
巻き物を食べるという幻がある。これは幻を見たのでなく事実、巻き物を食べたのだと取っても同じである。エレミヤも、15章16節に「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉はわたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました」と言っている。巻き物を食べるという表現は、新約聖書のヨハネの黙示録10章9節にもある。「わたしはその御使のもとに行って、『その小さな巻き物を下さい』と言った。すると彼は言った、『取って、それを食べてしまいなさい。あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い』」。巻き物の言葉は自分の言葉ではないが、食べることによってそれをいったん自分のものとして、それを語る。
巻き物を食べる幻についてもう一つ語られていることは、3章3節「わたしがそれを食べると、それはわたしの口に甘いこと蜜のようであった」という記録である。神の言葉を受けることは苦渋に満ちたものではなく、蜜のように甘美であり、それを食べることによって力づけられたという意味である。務めは確かに辛いし、語る言葉そのものも苦い言葉であるが、御言葉を語ることには喜びと力がある。
主は言われる、「人の子よ、イスラエルの家に行って、わたしの言葉を語りなさい。わたしはあなたを、異国語を用い、舌の重い民につかわすのでなく、イスラエルの家につかわすのである。もしわたしがあなたをそのような民につかわしたら、彼らはあなたに聞いたであろう」。
なぜ、神は聞きもしない民に預言者を遣わされるのか。それは神が契約関係に誠実だからである。人々は神との契約を捨てたが、神はイスラエルを捨てておられない。
あなたを言葉の通じない異国人に遣わすのではない、と神は言われた。聞く人と語る人の言葉は共通である。しかし外国語以上に通じない。このことはイエス・キリストの福音がそれを約束され、それを良く知っているはずのユダヤ人でなく、異邦人に受け入れられたことに最もハッキリと示されている。誇張ではない。
「見よ、わたしはあなたの顔を彼らの顔に向かって堅くし、あなたの額を彼らの額に向かって堅くした。わたしはあなたの額を岩より堅いダイヤモンドのようにした。ゆえに彼らを恐れてはならない。彼らの顔をはばかってはならない。彼らは反逆の家である」
神の言葉を聞かないことは、額の堅さであると言われる。その人に御言葉を聞かせるには、語る人が相手よりもっと額が堅くなければならない。エレミヤに対しても、1章18、19節に「見よ、わたしはきょう、この全国と、ユダの王と、そのつかさと、その祭司と、その地の民の前に、あなたを堅き城、鉄の柱、青銅の城壁とする。彼らはあなたと戦うが、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と言われる。エレミヤ15章20節にも「わたしはあなたをこの民の前に、堅固な青銅の城壁にする」と言われた。堅固さというのは人間的強引さではないが、御言葉を伝えるには単純な堅さが必要である。
新約聖書でも御言葉をはばからず、思い切って、大胆に説かなければならないと言われている。柔らかくては人の心に貫徹しない。この堅さは神が備えて下さるものである。
「彼らが聞いても、彼らが拒んでも、『主なる神はこう言われる』と彼らに言いなさい」。聞かなくても語り続けなければならない。我々の判断は聞く人がいなければ黙ろうという。これは語らせたもうお方の意志に反する。二つのことを考えねばならない。一つは、聞かれなくても語っているうちに聞くようになる場合がある。一つは、最後まで聞かなくても語ることに意味がある。神が語らせたもうからだ。ひたすら忍耐をもって語らなければならない。
(1997年10月26日、日本キリスト教会東京告白教会にて)
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渡辺信夫(わたなべ・のぶお)
1923年大阪府生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。文学博士(京都大学)。1943年、学徒出陣で敗戦まで海軍服役。1949年、伝道者となる。1958年、東京都世田谷区で開拓伝道を開始。日本キリスト教会東京告白教会を建設。2011年5月まで日本キリスト教会東京告白教会牧師。以後、日本キリスト教会牧師として諸教会に奉仕。
著書に『教会論入門』『教会が教会であるために』(新教出版社)、『カルヴァンの教会論』(カルヴァン研究所)、『アジア伝道史』(いのちのことば社)他。訳書にカルヴァン『キリスト教綱要』『ローマ書註解』『創世記註解』、ニーゼル『教会の改革と形成』『カルヴァンの神学』(新教出版社)、レオナール『プロテスタントの歴史』(白水社)他。