当時の状況としてもう一点触れておかねばならないことがある。バビロンに国の主立った者一万人が捕え移された。しかし、本国はまだ滅びていなかった。ユダ本国の状態はどうであったか。我々はエレミヤ書によってそれを知っている。彼らは主なる神に反逆を重ねた。預言者による重ね重ねの警告にもかかわらず、彼らは偶像礼拝を止めない。神によって国を建てなおすことを考えず、エジプトとの軍事同盟により、軍事力によって国の独立を確保し、バビロンに反逆しようという企みを止めない。エホヤキンはじめ多くの捕らわれ人がバビロンに連れ去られたのは、悔い改めを迫る徴しであったのだが、彼らは悔い改めよりもエジプトとの軍事同盟によって安全を保つことを考えた。そして、エレミヤの預言通りエルサレムは完全に破壊され、大量のバビロン捕囚が移されて行くことになる。
エゼキエルの預言とエレミヤの預言には共通する点が多い。同じ時代に、エレミヤはエルサレムで、エゼキエルはバビロンで預言した。
エゼキエルの召命は2章に入ってからである。この召命に先立って記される1章の記事の大部分は栄光の神の顕現である。幻である。預言者の召しの際に神の栄光が示される例としてイザヤの場合がある。イザヤ6章に記される。召しの声はかすかな声ではない。
エゼキエルの場合はイザヤの時よりも幻の記述が込み入っている。煩鎖な感じがするかも知れない。それぞれの場合が違って当然なのであるが、エゼキエルは召命に先立って幻に圧倒されたのである。彼の召命も圧倒と平伏である。エレミヤのように辞退することもない。イザヤのように私が行きますと答えることもない。2章で見る通り、神は次々とエゼキエルに命令を与え、彼は一言も答えない。ただ命令を受けるだけであった。
幻の説明を簡単にしておこう。詳しいことがわからないからではあるが、幻を詳しく描く必要はない。すなわち、神は十戒の第二戒において、御自身の像を刻んだり、描いたりすることを禁じたもうた。神はただ御言葉によってのみ御自身を啓示したもう。この点で他の神々と全く異なる。だから、我々がエゼキエルの記述にしたがって神の姿を描くことは、たとい頭の中に描くのであっても、いけないのである。ここに描き出されたのは神の姿ではなく神の栄光であり、栄光の象徴なのである。
エゼキエルの見た幻では、先ず激しい風と大きい雲が北の空から現われ、それがどんどん大きくなり、四つの生き物の形が見えてくる。それから、四つの輪が見えてくる。輪というのは神の御位、御座、ご座所の下についている車の輪のことである。この位、御座の上に神が座しておられるが、それについては26節が語るが、形ははっきりしない。エゼキエルは形をはっきり描くことをはばかったのであろう。
幻が北から現われるのは、神が北の天あるいは北の高い山に住まいたもうという俗信から来たものであろう。ヨブ26章7節に「神が北の天を空間に張り」と言う。そこに神の御座があると言っているようである。イザヤ14章13節に「あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる」とある。これは明けの明星が神の座を狙って、陰府に落とされることを語ったものであるが神の座は北にある。また、エレミヤに示された二番目の幻は、煮え立っている鍋が北からこちらに向かっている、あるいは北からこちらに傾いているというものであった。北から災いが来ることを象徴したものであると神御自身が説明したもう。
激しい風と大いなる雲、そして火、これらは神の現臨を象徴するものである。出エジプトの時、神は、昼は雲の柱、夜は火の柱によって御臨在を象徴された。エゼキエルの幻においても、雲は絶えず火を吹き出している。その雲の中に青銅のように輝くものがあった。すなわち、雲が神の栄光が直接に照り出すことがないように覆っているのであるが、それでも雲の奥から輝きが漏れてくる。
四つの生き物の形が見えてきた。これは迷信というよりは想像上の空想の動物である。簡単に言えば、神の使いである。人間の姿をするが、翼があり、顔が四つある。前向きには人の顔、右向きには獅子の顔、左向きには牛の顔、後ろ向きには鷲の顔である。四つの顔は四方また地の四隅に目を光らせて見張っているという意味である。
四つの顔の意味はわからない。古代キリスト教会の説教者はこの四つを四つの福音書の象徴であると解釈した。すなわち、人の顔はマタイ、獅子の顔はマルコ、牛の顔はルカ、鷲の顔はヨハネであるという。なぜそうなるかはわからないし、この解釈に従わねばならぬことはないであろう。神が御使いによって四方を支配したもうことを表わす。
神の栄光に仕えるものとして想像上の動物を作り出した前例に、イスラエルの幕屋の至聖所の契約の箱を守る二つのケルビムがある。また、イザヤ6章2節にセラピムについて語られる。四つの生き物はケルビムともセラピムとも同じではないがケルビムやセラピムをもとにして想像をさらに膨らませたのであろう。
次に見えて来たのは輪である。車輪である。四つの生き物一つずつに輪があるとは、生き物が一つずつ輪を担当して御座を引いて行くということである。その輪が御座の車輪だと言ったのは、古代オリエントで王たちの座する位に車輪がついている場合が多かったからである。18節に輪の縁の周囲は目をもって満たされていたとあるが、王たちの位の車輪の輪には宝石をはめ込んであるのに対し、神の御位の輪はおびただしい目がついていて、全てを見ているという意味である。
イザヤの見たセラピムは六つの翼を持っていたが、四つの生き物はそれぞれ四つの翼を持ち、二つで体を覆う。すなわち、天使も神の栄光の輝きに体をさらすことができないという意味である。あとの二つで飛びかけるが、その羽音は大水のようであった。
最後にサファイヤのような御座が見えた。御座に座するのは神であるが、神の形を述べることにエゼキエルは控え目である。だから、どういう形か良くわからない。(続く)
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渡辺信夫(わたなべ・のぶお)
1923年大阪府生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。文学博士(京都大学)。1943年、学徒出陣で敗戦まで海軍服役。1949年、伝道者となる。1958年、東京都世田谷区で開拓伝道を開始。日本キリスト教会東京告白教会を建設。2011年5月まで日本キリスト教会東京告白教会牧師。以後、日本キリスト教会牧師として諸教会に奉仕。
著書に『教会論入門』『教会が教会であるために』(新教出版社)、『カルヴァンの教会論』(カルヴァン研究所)、『アジア伝道史』(いのちのことば社)他。訳書にカルヴァン『キリスト教綱要』『ローマ書註解』『創世記註解』、ニーゼル『教会の改革と形成』『カルヴァンの神学』(新教出版社)、レオナール『プロテスタントの歴史』(白水社)他。