西出氏は、20年前から宗教に関心を寄せて記事を書いてきた。そのため社内では異色の存在とされることもあったが、震災後は主要紙でも宗教を扱う記事が増え、牧師や僧侶を新聞写真で見るようになった。
「つき動かされるように真摯に活動している信仰者を目の当たりにして、伝えなければとメディアも感じたのではないか」と語る。
ただ、メディアで扱われる多くはお寺の話で、キリスト教は少ない。それは心象的なギャップのためではないかと言う。「僧侶がこんなことをするのかという驚きが伝え手側にあり、逆に、キリスト者がこういう時に動くのは普通のことと見られているのではないか」
東北ではお寺が強く、檀家もしっかり結束している地域が多い。北村氏によれば「キリスト者はあくまで外来で、下手をすると『バテレン』とか呼ばれる土地柄もある(笑)」。某教会が仮設住宅で傾聴ボランティアを行い、後で聞くと、聖書についてのリーフレットも配っていた。
「これに、お坊さんはカチンとくるわけですね」と北村氏。では、僧侶が家族を失った人に「死者の成仏」について触れるのはいいのか、という問題は今も論じられているという。「仏教は宗教ではなく風習で、そのくらいは当然だ。けれども、キリスト教のリーフレットを配るのはまずい、と言えるのかどうか」。
こうした細かい問題から、異宗教がうまくやっていくのは難しくなる。それだけに「基本的には、まず人間関係です」と、人として信頼を築く大切さを北村氏は説く。「教義論争をしてから、じゃあ一緒にやりましょう、ということはありえませんから」
最後の質疑応答の時間には、聴衆席にもマイクが回り、意見や質問が交わされた。福島の子ども達に保養地提供などを行っている牧師は「圧倒的な状況の中で、自分の働きに意味を見い出す困難さ、宗教者であることを問い直される思い」について触れた。
僧侶であり、『悲しむ力』などの著書がある中下大樹氏にも発言が求められた。「私たちはだれもが傷つくことが怖い。常にホームにいることは安心ではあるが、そこを越えていかなければならないことは、みんな分かっている。お寺や教会など自分のホームでやることには限界があり、アウェイに出て負けていく経験も必要ではないか」と中下氏。これを受けて北村氏は「アウェイこそ、実はホームである。世の中のことすべてが宗教者のなすべき課題ではないか」とした。
柳沼氏は「宗教とは命をかけること。キリスト教も仏教も下火になって、信者が減ってという声もありましたが、それは、宗教者が生き方に命をかけていないから魅力がないということなのではないか」と問う。一方で、ボランティアに駆けつけている今時の若者たちが「何かを求めていることを、私はひしひしと感じる」として言葉を結んだ。
■ 震災・原発・福島から見るキリスト教:(1)(2)