「真理とは何か?」
ローマ総督ポンテオ・ピラトは、イエスに尋ねた。
「真実は一体どうなんだ?」
「本当のことを知りたい!」
これは人間の本能的な欲求である。
外国の刑事裁判にかけられた、日本人被告人の支援をしたことがある。被告人は無罪を主張していたので、裁判を有利に運ぶために日本での証拠集めを頼まれたのだ。だが、調査しているうちに、被告人に決定的に不利な証拠が見つかってしまった。
拘留中の被告人に真偽を問い合わせたところ、断固として彼はこの証拠の信憑性を否定した。現地の最高裁判所まで争ったが、結局、被告人の有罪が確定した。私も被告人は有罪だと確信している。
しかし、本人が無罪を主張している限り、誰にも本当のことはわからない。マスコミや裁判所からこぞって、「百パーセント有罪だ」とされた人たちの冤罪事件は、後を断たない。「神のみぞ知る」と言うが、本当のことは神にしかわからない。「自分がやりました」―たとえ被告人がこう自白しても、それが真実とも限らない。
「この人には何の罪も認められない」と言いながら、ピラトはイエスをユダヤ人たちに引き渡してしまった。無罪であることを知りつつ、ユダヤ人たちは、イエスを断罪して、十字架に付けて殺してしまった。「人類史上最大の冤罪事件」である。
全知全能の神は、すべてを知りつつ、なぜ、このとてつもない不条理を見過ごされたのか。そこには「人類救済」という、神の深い愛の意志と目的があったからだ。私たちの罪の身代わりとして、イエスは無実なのに十字架に架けられた。だからこそ、天の法廷において死刑判決を受けるはずの私たちは、無罪とされたのだ。これが本当のストーリーである。
そもそも「真理とは何か?」という問いが間違っている。真理とは、真実か虚偽かという単なる外形的な事実ではない。真理とは、あらゆる事象を越えて働いている神の愛の意志である。
神の意志は、イエスを通して働いている。ゆえに、真理とは、イエスのことである。
「すべてのことにおいて、愛の神は、人知を越える最高・最善をなしておられるのだ!」
イエスと結ばれて初めて、こう確信することができる。いかなる疑惑や束縛や拘束の中にあっても、イエスを信じるなら、そこから霊的に解放されて、あなたは真の意味で自由にされるのである。イエスを信じるなら、あなたは真理に生きている。真理に生きているなら、あなたは自由に生きている。
「真理とは誰か?」
これが正しい問いである。
―「わたしは、道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書14章6節)
佐々木満男(ささき・みつお)
国際弁護士。東京大学法学部卒、モナシュ大学法科大学院卒、法学修士(LL.M)。インターナショナルVIPクラブ(東京大学)顧問、ラブ・クリエーション(創造科学普及運動)会長。
■外部リンク:【ブログ】アブラハムささきの「ドントウォリー!」