関東聖化交友会(関東JHA)主催の関東青年大会が27日、東京・渋谷区のインマヌエル中目黒キリスト教会で開催された。講師の中村和司師(ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会副牧師)は集まった約150人の若者たちを前に、「私は救われるために、ただイエスさまだけに頼った」「どんなに主が私を愛していてくださっているか」と声を張り上げて神の愛の大きさを伝えた。
同大会は毎年開いており、今年で22回目。単立・みどり野キリスト教会(横浜市青葉区)のワーシップチームが元気いっぱいに賛美をリードすると、会衆は一つになって声高らかに主を賛美した。
中村師は、マタイの福音書20章の「ぶどう園と労働者のたとえ」にある、午後5時ごろに雇われた労務者とぶどう園の主人との会話のやり取りに注目し、「(この労務者は)本当の自分を見出してくれる人を探している」と説いた。
労務者はぶどう園の主人によって見出された。中村師は、恵まれない家庭環境に育った自分がいつも感じていた「自分を受け入れて欲しい」という思いと、この労務者の思いを重ねた。
「自分は受け入れられていない」――小学生時代、中村師はいつしか、恐れと不安の中で自分をコントロールできなくなっていた。「誰かに一緒にいてほしい、受け入れてほしい。」だがそのこころの渇きは決して満たされることがなかった。そうするうちにいつしか、周囲の人々にこころを完全に閉ざしてしまった。
そんな中村師にも、たった一つの希望があった。それは教会に通う祖母が教えてくれた「天の父なる神さま」だった。
様々な聖会を駆け巡って、自分が本当に求めているものを探そうとした。しかし、自分からどうもがいても、それは見つけ出すことができなかった。ただ自分が無力で何もできなくて、涙するしかなかった。
これでもかと散らかった自分の部屋で、気付いたら聖書を枕にして眠っていた。はっと目覚めた中村師の目に、一つの聖句が飛び込んできた。
――「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネ20:19)
イエスは何も責めず、ただ自分が一番欲しいものを言ってくれた。主ははっきりと、愛とはこういうものだと教えてくれた。自分がどうのこうのではない、自分がどんな人間であっても、「わたしはあなたを放さない」と必ず言ってくださる、それが神さまの愛。「この愛の中に、ただ身をゆだねていけばいいのだ」――中村師のこころに、いつしか神を「信頼する」こころが芽生えていた。
それでも、すぐに「ありのままの自分」になることは難しかった。「私は受け入れてもらえない」という劣等感にずっと悩まされて、自分をいつも隠してきたからだ。本当の自分は、「びりっけつ」なのに、それがばれることが本当に怖かった。
しかし、自分を見出してくれたぶどう園の主人、神は、「ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです」(14)と言ってくださった。イエスさまが一番最後になられて、十字架について待っていてくださった。天の父なる神さまは、こんな自分でもイエスさまと同じように取り扱ってくださる。
「私は最後でもいいんだ。びりっけつでもいいんだ」――そうだ、自分には何もできない。でも、できることが一つだけある。それは、「ありのまま、何もできない者として、ただイエスさまにより頼むということ。」
中村師は、「私は救われるために、ただイエスさまだけに頼った。こんな私だけど、イエスさまはすべて成し遂げてくださった」と集まった若者たちに真実を力強く伝えた。
最後に中村師は、「どんなにイエスが私を愛していてくださっているか、それを思ったとき、私の思い悩み、それはまったく関係ない。最後の者、これでいいんだ」と語り、主の圧倒的な愛の大きさを改めて強調した。
講演のあと会衆は各自静かに神に祈り黙想しながら、集会で与えられた恵みをメモに書き留めていた。