第2回聖書聖会(同実行委員会主催)は最終日の13日、大阪府八尾市のグレース宣教会グレース大聖堂で午後3時から4回目の集会が行われ、閉幕した。来年の日本ケズィック・コンベンションの主講師で米アラバマ州ディアフット・バプテスト教会主任牧師のロジャー・ウィルモア氏が講演し、教職や信徒ら約500人が参加した。ウィルモア氏は、「今日教会が最も必要としていることは、個人的な救い主としてイエス・キリストを受け入れた人々が聖霊に満たされること」と語り、「聖霊に満たされたキリスト者が聖霊に満たされ続けることなしに満足することはできない」とキリスト者が継続して聖霊に満たされることの必要性を強調した。
ウィルモア氏は、ローマの信徒への手紙8章9節から「キリストの霊(聖霊)を持たない人はキリストのものではありません」と強調し、「聖霊が自らのうちにおられることをしてキリスト者だと言える」と説いた。そのうえで、旧約聖書の列王記下4章1節から7節と新約聖書のヨハネによる福音書7章37節から39節を引用し、聖霊に満たされたキリスト者の生活について説いた。
列王記下4章のやもめの家で起こった奇跡についてウィルモア氏は、「聖霊の型が表されている」と述べた。やもめの家に油のつぼ一つしかなかったことについては、「恐らく、借金を返すために家財道具を売り払って返そうとしていたのではないか」と語り、「それは私たちが、なすべきことを自分の力をもってなそうとする姿ではないか」と説いた。また、エリシャがやもめに、空の器に油を注ぐ前に家の戸を閉めるようにと命じたことについて「非常に重要な描写」と強調したうえで、「まさに忙しい世の中から離れて、神の前に静まりなさい、神と一対一になりなさいということ」と説いた。
さらに、空の器がなくなるまで油が注ぎ続けられたことについて「この描写こそ、聖霊に満たされることの原則を教える重要な描写」と強調し、「私たち一人ひとりが自分自身という空の器を明け渡すあいだは、空の器に油が豊かに注がれる。しかし、御言葉に従わず、服従しなくなったときに油の注ぎは止まってしまう」と説いた。
ヨハネによる福音書7章にある仮庵(かりいお)祭についてウィルモア氏は、「非常に宗教的なものだった。大切な意味が込められた祭りだが、当時のイスラエルの民はその儀式の本当の意味を忘れ、ただ形式的に行い、その心は乾いていた」と指摘した。そのうえで、宗教は儀式や形式的な行いをもって神に近づこうとするが「人間の側で何をしても神に届くことはできない」とその限界を指摘し、「しかし神ご自身がそんな私たちのところに来てくださって引き上げてくださる」とキリスト信仰と宗教との違いを説いた。
イエスが言われた「生きた水」(38節)についてウィルモア氏は、「まさに生ける聖霊を語られている」と説き、「(イエスを信じる者は)生ける御霊が大いなる川のようにわき溢れてくるとイエスは語られた」と聖霊の流れの豊かさを強調した。
ウィルモア氏は、聖霊に満たされる条件として「神の臨在を自分のものとしなければならない」と説き、「あなたがキリスト者であれば、聖霊はあなたのうちにいてくださる。しかし重要なことは、それをあなたのものとしなければならない」と強調した。また、「神の御言葉に祈り深く従っていかなければならない」と述べ、「神は従う者に御霊を注いでくださる」と説いた。
なぜキリスト者が聖霊に満たされなければならないかについては、「神の御言葉が私たち一人ひとりに聖霊に満たされるように命じている」と語り、エフェソの信徒への手紙5章18節について「オプションではなく神からの命令」と強調した。また、「神の御言葉が、私たち一人ひとりに聖霊に満たされることを求めている」と説き、使徒言行録1章8節の「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」を引用し、「もう一度、自分自身のこととして受け止めていきたい」と呼び掛けた。
ウィルモア氏は、日本での宣教経験を持つOMSインターナショナル元代表のウェスレー・デューウェルの6つの勧めを紹介し、キリスト者がどのように聖霊に満たされるかについてそのステップを説いた。
第1に「あなたと神との関係を阻むものがないようにする」こと。ウィルモア氏は、「あなたが聖霊に満たされる前にまずキリスト者でありなさい、キリスト者であるなら御言葉に従順するキリスト者でありなさいということ」と説いた。
第2に「神が備える聖霊が必要だと認める」こと。第3に「聖霊に満たされることを求め、そのために霊的に飢えかわきを覚える」こと。ウィルモア氏は、「神は望みのレベルに応じてご自身を示してくださる」と語った。
第4に「キリストの主権にすべてを明け渡す」こと。ウィルモア氏は、「何かをにぎっておきながら満たしてくださいとは言えない」と語り、「心のどこかに立入禁止という部屋を持っていないか」と問い掛けた。
第5に「単純に、神の前に『聖霊を満たしてください』と求める」こと。第6に「うちにおられる聖霊に信頼し、事を行う」ことだ。
ウィルモア氏は、「聖霊に満たされることは瞬間的な出来事」と語り、「聖霊が臨んで自身をゆだねる瞬間に満たしてくださる」と説いた。また、「感情の高ぶりが伴わなくとも、それで聖霊が働かれていないということではない」と述べ、「聖霊に満たされることは感覚の問題ではなく、信仰の問題」と強調した。
さらに、エフェソの信徒への手紙5章18節について「一回限りでなく継続的に満たされ続けなさいという意味の単語が使われている」と説き、「聖霊に満たされ続けることを求めなければならない」と強調した。
最後にウィルモア氏は、「聖霊に満たされたならば、喜びをもって神に感謝をささげてもらいたい」と語り、「聖霊の力が全生活に及ぶことが必要」と説いた。