種子島には県立高校が四つある。西之表市に二つ、中種子町と南種子町にそれぞれ一つである。私が中学を卒業した昭和三十二年ごろは、田舎の中学生のほとんどが就職する時代だった。私は、高校に進学するなら、種子島高校と決めていた。勉強も学校も嫌いではなかったし、小学校、中学校と欠席も遅刻も早退もなく通いつづけた。ただ教師が嫌いなだけの変な少年だったのである。まだ何がまっすぐなのか判断のつかないのに、とにかく曲がったことが嫌いだった。不必要なことは言わず、聞かれたことには返事するが、聞かれなければいつまでも黙っている。そんな生活が長く続いたので、牧師になっても相変わらずで、人づき合いは下手なままである。
星原中学から種子島高校を受験する予定にしていたのは三人だった。受験を控えて、英語の授業がどうも理解できず、先生に「もう少し分かりやすく教えてください」と申し出た。教員になったばかりの新任の教師は、顔を真っ赤にして怒った。いつも「何でも困ったことがあったら、言っておいで。僕は兄貴みたいな者だから、いつでも来ていいよ」と言っているので、勇気を出して話したのにと思った。次の授業から、ますますむだ話が多くなった。しかも言いぐさが気にいらない。「どうせ、君たちのほとんどは、就職するからな」などと平気で言う。高校へ行きたい気持ちは、みんなもっているのに、何ということを教える教師なんだろう?
校長先生に相談する以外にないと思った。校長の川口先生は、私のへたな絵に少し絵筆を加えて県の展示会に出し、見事入選を取らせてくれたことがあった。先生の娘も私と同じクラスだった。私は、あの校長先生なら、きっと何とかしてくれるだろうと思っていた。
校長室は少し緊張したが、いつも緊張しているから同じだと勇気を出して、担当教師を変えてくれるようにお願いした。校長先生はニコニコとうなずきながら聞いてくれたが、何も確約はしてくれず、「私から英語の先生に話してみましょう」とだけ言ってくれた。これでまともな授業になるかと期待したが、ますますおかしくなった。
最後の手段として、英語の嫌いな者も含めて何人かで、倉庫に隠れて英語の本を読んだ。さすがに受験生の大半は加わらなかったが、私たち数人は三日間、英語の授業には出なかった。何しろ筋金入りの共産主義者に育てられ、小学生のころから選挙の時にはメガホンを持って、暗闇の田舎道を「共産党の何々を市会議員によろしく!」と叫ばされていた。また自分が正しいと思ったら徹底してやれと、育てられていた結果でもあった。
三日後、校長先生が頼むからやめてくれと頭を下げたのをきっかけに矛を収めた。もともと人を困らすためにやったことではない。授業をやってほしいと言うのに、変な冗談やだじゃればかり言うから、ちゃんとしてほしかっただけだ。でも今では、その若い英語の先生に「ごめんなさい、先生。私を赦してください」と素直に謝りたい。
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榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書『天の虫けら』(マルコーシュ・パブリケーション)は、98年に出版された同師の自叙伝。高校生で洗礼を受けてから世界宣教に至るまでの、自身の信仰の歩みを振り返る。