人工妊娠中絶に反対し、胎児のいのちと人権保護を訴えている「小さないのちを守る会」(辻岡健象代表)が今年で発足二十周年を迎える。二十年間、「声なき胎児の代弁者」として働いてきた辻岡牧師にその気持ちを語ってもらった。
ビジネスマン時代に、自分のためだけに生きているのではないかという神様の声を夢の中で受けたことが牧師として献身するきっかけという辻岡牧師。小さな命を守る会の活動を始めてからの二十年間は、厳しいこともいろいろあったが、神の愛、神のいのちを体験しながらきたためにあっという間だったという。
同会の活動を始めたときは、終わりのときに神様の前で、たとえ途中で倒れたとしても、「やったけどだめでした」と言えれば、また、神様に忠実な僕と言われたとしても、「するべきことをしたに過ぎません」と言えればよいと思ったという辻岡牧師。やるだけやってだめならそれでも満足だと思って始めたこの活動は、多くの感動と尊いいのちの交わりに守られてきた。
小さないのちを守る会を始めた動機のひとつとして辻岡牧師は、言葉だけ、教会の中だけではなく、聖書の愛を実際に実践しようと思い、そのベースとしてクリスチャンの「社会的使命と責任」を感じたのだという。
辻岡牧師は、現在「宣教」と訳されている「Mission」という言葉は本来、世に遣わされていくという意味での宣教と同時に「社会的責任」を含むべきだと語った。本当の福音とは、宣教と社会的責任を車の両輪のようにやっていくことではないかという。
クリスチャンの社会的責任は、知識だけではなく実際に神様の愛、聖書の言葉を実践することで、人々の目を開かせて福音の世界を示すこと、という辻岡牧師は、日本で宣教が進まないのは口だけであったからではないか、と自らの体験から語った。
信じて救われた人は、そこで立ち止まるのではなく、神の御業の行いをしなければならず、また、信じ救われたものこそ本当の行いができるのでは、と語る辻岡牧師。自らも、神の愛を実践するとき信仰は行いによって完成するということが本当に見えてきたという。
自らの実践によって証しするときに、その中で神の愛といのちを体験することができ、それが信仰の成長となる。そして、そのようにして救われた人は黙っていても伝道するようになると辻岡牧師は話した。
また、肉体の癒しだけではなく、永遠の命につながる救い、救霊もテーマであったという辻岡牧師は、創造の一番の冠は「いのち」ではないかと語った。そして、そのいのちにこそ神様の栄光があらわされているという。
聖書は、そのいのちを、いかなる理由があろうとも無条件に殺してはいけないと語っている。神様に対する最大の罪がいのちを殺すことであり、これ以上大きな反逆はないと語った。神様からのいのちの尊さを示すことも、この運動を始めたきっかけの一つとなった。
その中で、日本で行われる中絶の実態を知ったことに大きな衝撃を受けたという。
辻岡牧師によると、赤ちゃん一人が生まれるまでには、三人から五人が胎児の段階で殺されているという恐ろしい実態があるという。中絶医から報告される年間四十から六十万件の中絶数は、実数の一から二割にしかならないという。
「殺人はサタンの働き」だという辻岡牧師は、生まれれば1%でも神様の証人になれる可能性があるが、胎内で殺されれば、それは100%サタンの勝利となってしまうと語った。
中絶は社会全体の問題であり、現代社会での若者の性の乱れ、誤った性教育にも危機感を感じるという。
同牧師は、性欲自体は神様が肉体を維持し、その栄光を現すために与えてくださったものであり、性は神様の祝福であるが、問題はその管理方法だと指摘した。性に対する正しい考え方がなされずに性の乱れが進み、それがいのちの軽視に拍車をかけ、また生命軽視が性の乱れに拍車をかけるという悪循環に陥っている。
しかし、そのような危機的な問題に対して教会はまったく無口であった、と辻岡牧師は語った。
性や死の問題を汚らわしいものとして距離を置こうとする日本社会の雰囲気の中、教会もその問題について発言を避け、愛や救い等のきれいな話しかしてこなかったのではないか、と自らの経験を振り返った。
教会が話さないのは、その実態を知らず、体験がないことにも起因する。辻岡牧師は、教会に対する啓蒙がまず必要だと語った。
相対的な基準しかない社会と違い、聖書の絶対基準がある教会が、いのちと密接な関係にある性の素晴らしさを伝え、「性といのち」に関する正しい教育を行わなければならないと指摘する。
辻岡牧師は、妊娠とは人の思いを超えるものであると語った。だからこそ、一度与えられた命はどのような事情があっても殺してはならず、絶対に「産む使命」を果たさなければならないと語る。子どもが親を選べないように、親も絶対に子どもを選ぶことはできないと語った。
これまでの活動の成果として辻岡牧師は、NHKや朝日新聞、産経新聞等で小さないのちを守る会の働きが社会的に広く取り上げられたことにより、教会の働きを社会に紹介でき、教会が社会で市民権を得るために役立ったのではないか、と話した。
現在は会員数も三千人を超えたが、それでも辻岡牧師は、活動が教会を離れないことが鉄則だと語った。そして、期待は教会にあり、将来はこの働きを教会の働きへともっていき、教会にもっと目を開いていってほしいという。今、教会がこの問題に取り組まなければ、性問題によって教会が倒れてしまうのかもしれない、と憂慮しているという。その意味では、教会を守る意味もあるのでは、と語った。
辻岡牧師は、いろいろな人脈に恵まれたことは大きな祝福だったと感謝しており、この働きは自分自身がやったことではなく、多くの人たちの交わりの中で神様が人々を用いられて成された御業だとした。
結局真理は生かすか殺すかしかない単純なものだという。そのときに神様は、無条件に殺してはいけないと語りかけ、生かすことを選べばそこに奇跡があるのだ、と辻岡牧師は語った。
自身にとっての一番の成果は、神様の愛が見えてきたこと、という辻岡牧師。いのちの長短に関係なく、いのちがそこにあること自体が神の栄光を表しているという。
命の問題に教会が働き掛けることによって、社会が教会を見直すようになればと話した。この先も、いのちといのちの出会いを大切にし、生かされていることに感謝しながら活動していきたいと語った。