しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。 ピリピ3:20
寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。 出22:20
寄留者
2年前、米国の日系人教会に出席し日系移民一世と出会う機会があった。米国の日系人教会も高齢化が進んでいる。なぜなら、二世以降の世代が英語の礼拝に参加するため日系人教会を離れるためだ。彼らは私たちの家族を、韓国人ではあるが、日本から来た者だということで歓迎してくれるのではないか、と思っていた。しかし、しばらくすると、本当に心から歓迎してくれていることを感じた。それはまるで親戚の者に対するかのようであった。
彼らが私たちの家族を歓迎してくれたのは、彼らもまた痛みを持つ人々であったからだと思う。彼らは戦争中に日本人であるという理由で収容所に入れられ、ひどい差別を受けた。親の配慮からその当時日本に帰国して学校に通った者もいたが、日本においてもアメリカ育ちだということでひどくいじめられた経験を持っていた。そして、その事柄の殆どは在日韓国人の体験と非常に重なるものであった。彼らは、日本に住む韓国人は自分たちと同じだと言い、本当にまるで身内のように接してくれた。
しばらく話をしていると韓国人・日本人ということを忘れ、外国に住む寄留者という共通性の中で共感しあいながら、神に導かれてきたことを証しするすばらしい時間を共有した。韓国や日本にいては、決して重なるはずのない2つの国籍が、米国でいとも簡単にその間にあった壁が消え失せ一つとされてしまったのだ。旧約聖書の創世記にあるバベル塔の話の中で、言葉を変えられ散らされた人間は、新約聖書の使徒言行録で聖霊の働きによって、その言葉の違いを乗り越えて一つとされた。多様化してばらばらのように思える私たちを一つにしていく鍵は、やはり聖書の中に隠されている。