子どものころ、床屋へ行くのは決まって祖父と一緒でした。駅前の理髪店へ毎月通っていました。その床屋さんには数人の理容師さんがいたのですが、僕の担当の人はいつも怒ったような怖い顔をしていました。口ひげをはやしてパンチパーマのそのおじさんが怖くてしょうがありませんでした。怖かった理由はその容姿だけが原因ではなく、そのおじさんはうまくしゃべれないらしく「うおぅ!」とか「ごうぅ!」という唸り声のような声で僕に「そこに座って」とか「もう少し頭を横に傾けろ」といった指示を出すのでした。
あるとき祖父に「ぼく、もうあそこの散髪屋さんに行くの嫌だ、だってあのおじさん怖いから…」と言ったことがありました。すると祖父は「ああ、あの人おしやからな。しょうがないねん」と言って一向に気にする様子もなく、いつものように僕をその理髪店に連れて行くのでした。
あきらめて、鏡越しにそのおじさんを見ているうちに、気がつきました。そのおじさんは怖い顔をしているけども仲間のおじさんと話すときには笑っていること、身振り手振りで会話していてどうも耳が聞こえないらしいこと。そうか、耳が聞こえないからうまく話せなかったんだ。と初めて気がついたのでした。
『人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れてきて、その人の上に手を置いてくださるようにと願った。』(マルコ7:32)この人はどんな気持ちで毎日を過ごしていたのでしょうか。伝えたいことがうまく伝わらず、聞きたいことも聞こえない。コミュニケーションに不自由していたこの人はきっと孤独だったかもしれません。不自由な身体に苛立ちを感じていたかもしれません。
現代以上に障害者への差別や偏見の強かった時代です。人との交わりから疎外され、心が石のようにかたく閉ざされていたのではないでしょうか。
イエスさまが「エッファタ(アラム語で「開け」)」といって開かれたのは、この人の耳と口だけでなく、疎外感でかたくされた心そのものだったように思います。こうしてキリストに出会った喜びにより、奪われ、失われていた人間性を回復していったのではないでしょうか。
また、この「エッファタ」とは、私たち自身に向けられた言葉でもあります。私たちは普段の生活の中で心を開いて、聞くべきものを聞き、話すべきことを話しているでしょうか。神さまは、不自由にされた人、孤独な人、苦痛を受けている人、差別されている人、このように弱くされた人々を通して、私たちを神さまの恵に結びつけようとされているのかもしれません。
※「おし」という言葉は聾唖者に対する差別語ですが、当時子ども心に意味がわからなかったことも話の大切な要素ですので、あえて使用しています。
(提供: 立教女学院小学校聖書課通信)