本末転倒という言葉がある。本質的な事柄と枝葉的な事柄を取り違えることだ。信仰の長い道のりで知らずに信仰の本質を見失うような本末転倒の愚を犯す場合がある。実際に、熱心だった信仰生活がいつのまにか形式だけになる姿がある。奉仕に疲れ、世の罪と妥協し、惰性的な生活を繰り返す姿がある。
信仰は主の恵みを求め、主の栄光を現すためだ。しかし、そのような本末転倒のような姿があるなら、自身の歩んできた道を省みて、正しい道へ戻らなければならない。
先ず、「観念化された信仰」を省みるべきだ。伝道への情熱はあっても実際の行いがないのは、人間的な基準で判断するからだ。知識の根本は謙遜だ。神の言葉に聞き従うことはいけにえに勝る。我々は人間の知的な傲慢を悔い改めるべきだ。自身の無知と無力を認め、神に従順するとき、その人を通して神の栄光が現れる。実践的な計画を立て、祈りながら主を畏れる心で一歩ずつ確実に解決していく姿勢が必要だ。
次に、「敬虔な者の不敬虔」を省みるべきだ。外見は敬虔なふりをして罪を隠蔽する姿を悔い改めるべきだ。人の前では善を行い、神の前では罪を犯さなかったか点検しなければならない。謙遜な人は自身の罪を隠さず悔い改める。罪を隠蔽して綺麗に装うことより、正直に罪を現し、赦しを得る方が敬虔な姿だ。見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になってはいけない(テモテ?3:5)。
また、「律法的な信仰」を悔い改めるべきだ。律法は目に見える罪には敏感だが、内面の罪には鈍感だ。兄弟の目に見える罪には敏感でも、自身の中に潜んでいる罪には目が届かない。また、外見の儀式や形式を守りながら、心の中では数多く罪を犯している。人はうわべを見るが、主は心を見る(サムエル記?16:7)。互いに十字架を背負う福音に生きるべきだ。福音によって召された我々が律法で終わるなら、それこそ本末転倒だ。
歴史的に見ると、世界的なリバイバル運動は例外なく悔い改めの運動から始まったことが分かる。一人ひとりの内的な悔い改めがあって、個人的なリバイバルの連鎖が大きな聖霊の運動につながった。罪をおおやけに告白し、悔い改めることは辛いかもしれない。しかし、罪の悔い改めのない復興はうわべだけのものになってしまう。質的な変化が量的な変化に優先すべきだ。
真に信仰の復興を願うなら、先ず日本のキリスト教会が自身の姿を正直に省みて、主の御前にひざまずき罪を告白することから始めることを勧めたい。