人間が生まれながらに持つ「原罪」を描いた『氷点』に続き、「罪のゆるし」をテーマとした『続氷点』は、燃える流氷に表されたキリストの贖罪(しょくざい)をわれわれに示し、絶望を希望に変えてくれた。
作品について
睡眠薬自殺を図り、蘇生した陽子は、当然自分の出生を巡る罪に悩むであろう。それ故、いかにして陽子が自分自身と、自分を巡る人々の罪のゆるしを体得していくか、その過程を描かねばならない――というのが著者をして続編を書かせた理由であった。
前編の『氷点』で、陽子は遺書に「私の血の中を流れる罪を、ハッキリと『ゆるす』と言ってくれる権威あるものがほしいのです」と書いているが、これこそが続編である『続氷点』に引き継がれるテーマである。
辻口啓造、夏枝、徹をはじめとする陽子を巡る人々もまた、それぞれの過去や、自分の心の奥底にある罪と向き合わざるを得なくなり、悩み、葛藤し、そして救いを求める姿が描かれている。
そして最後は圧巻である。陽子は、まるで全ての人間の罪を覆い隠そうとするかのように燃える流氷の中に現れたイエス・キリストの贖罪の血を見、そこに自分の罪が完全にゆるされたことを知ったのであった。
著者について
三浦綾子(1922~1999)は北海道旭川市に生まれ、小学校教員として軍国主義教育を行ってきたが、矛盾を感じて退職。その後、肺結核や脊椎カリエスを患い、闘病生活を送る。クリスチャンの青年三浦光世と出会って以来、キリスト教信仰を持つようになり、彼と結婚。1964年、朝日新聞社による1千万円懸賞小説に『氷点』が当選し、以後クリスチャン作家として活躍する。『塩狩峠』『海嶺』『母』などの多数の作品を世に送り出した。
あらすじ
陽子が覚醒してから1週間たった。彼女の前には以前とまるで違う世界が待っていた。養父母の辻口啓造と夏枝は、彼女の枕元でその心を傷つけ自殺に追いやったことをわび、陽子の実の父母は中川光夫と三井恵子であることを語り、写真を見せるのだった。
殺人犯の娘でなかったことは判明したものの、陽子は自分が不義の子であることを知り、その罪はゆるし難いものに思われた。
一方、徹は陽子の実母恵子に会うために「三井海産物問屋」を訪ね、そこで恵子の長男潔に声をかけられ、陽子の兄かもしれないと思う。徹は友人の北原と高木を訪ね、育児院に送られる子どもの悲惨な運命について聞かされた。
その後、高木の母が亡くなった知らせを受け、辻口家の者は通夜に行く。葬儀の手伝いをしていた徹は受付に黒いドレスの女が来たのを見、それが恵子と知り、後を追う。そして山門の近くで声をかけ、その後彼らは山愛ホテルのロビーで会うことになった。
徹は恵子に陽子の話をし、彼女が殺人犯の娘という汚名を着せられたことを苦に自殺を図ったことを告げた。恐ろしい衝撃を受けた恵子は、自分が夫三井弥吉の出征中に中川を愛し、女の子を産んだこと、やがて終戦になり、夫が帰ってくるので、中川も死去したことから、やむなくその子を育児院に入れたことなどを告白するのだった。その後、恵子が交通事故を起こし、重傷を負ったことが新聞で報道された。
徹は恵子を病院に見舞う。長男の潔は彼女のけがは膝関節骨折で3カ月の入院と言う。恵子の枕元に高校生くらいの目の鋭い少年がいた。次男の達哉だった。徹が目を開けた恵子に思わず「すみません」と言うのを聞くと、彼は「すみませんって何ですか」とかみつき、敵意を含んだ目で見るのだった。
この事件があってから、徹の心に変化が起きた。自分がひどく間違った歩き方をしてきたのではないかと思われた。人間は、自分は正しいつもりでも、間違っていることがあるのだ。彼は陽子にこの話をした。すると陽子も、人間はじっと身動きしないで山の中にいても、どうしようもない嫌なものを持っているのだと言った。彼女も罪というものを模索し始めていたのだ。
夏枝の友人辰子は、不幸な境遇の娘で盲人の松崎由香子をマッサージ師として雇い、身の回りの世話をしていた。実は、彼女はかつて辻口病院に勤めており、夏江の夫である院長の啓造に道ならぬ恋をしていた。啓造はそれを知りつつ、冷たく拒絶し、彼女はその後、村井に強姦(ごうかん)され、ボロボロになって自殺を企てたのだった。
啓造は彼女に再会したとき、心の中に責めを感じ、たまたま立ち寄った本屋である雑誌の中に「罪について」というエッセイを読んだ直後、自分が犯罪を犯さずとも、無数の罪という石を心の中に積み上げてきたことを思った。
札幌の徹から演奏会の招待を受け、陽子は出かけてゆく。北原も来ていた。この時、陽子は薬局の娘相沢順子と知り合い、友達になる。その後も恵子を見舞った徹は、彼女の夫である弥吉に引き合わされた。彼は立派な紳士だった。
4月、陽子は北海道大学に入学した。キャンパスで彼女は一人の青年に声をかけられた。それは達哉だった。彼は陽子が自分の母とそっくりだと言い、この時から急接近してくるのだった。
陽子の下宿に同じく北海道大学に入った順子が訪ねてくる。2人は親しく語り合ったが、順子が何やら人に言えない悩みを抱えていることを陽子は察する。
そんなある日、陽子、順子、徹、北原の4人は、支笏(しこつ)湖に遊びに行く。この時、北原は陽子と徹の間には自分が踏み込めない絆があることを思う。そして「ところで、例の佐石の娘はどこにいるんだろうね」と何気なく言ったとき、順子の顔色が変わったことに気付かなかった。
果たしてその数日後、順子から陽子宛てに手紙が届いたが、それは驚くべき内容だった。それには、陽子と徹が本当のきょうだいでないことは以前から知っていたが、陽子が自殺を図ったとき、どんな気持ちだったか察する――という書き出しで、自分も4歳まで育児院で育ち、その後、相沢夫妻に引き取られ、幸せになったが、自分は暗い過去を背負っており、父親は殺人犯の佐石土雄であることを告白したものだった。
そして、最後にこう結ばれていた。「自分は実の父を憎み、呪い、責め続けました。しかし、相沢の父母に連れられて教会に通い、そこでキリストの贖罪を知ったのです」と。この手紙を陽子から見せられた啓造は衝撃を受けつつ、つぶやくのだった。「復讐(ふくしゅう)のために子どもをもらう。何と自分は恐ろしい人間なのか」
ある日、陽子と順子、そして啓造は林の中を散歩していた。そこへ夏枝も来る。そのうち、一行は土手に出た。夏枝は野菊の花を手折り始めたので順子がわけを聞くと、夏枝は言う。「あの土手の所でルリ子は佐石という人に殺されましたのよ」と。すると、順子はその場にくずおれ、夏枝の前にひれ伏して叫んだ。「ごめんなさい。ルリ子ちゃんを殺したのはわたしの父です。わたしは佐石の娘です」と。
啓造は教会の礼拝に出席した。そこで一人の女性が、自分は老人ホームに勤めていて得意になっていたが、実は老人ホームの人を愛していたのではなく、老人ホームに勤める感心な人だと人から褒められたいという気持ちがあったことに気が付いた――という証詞(あかし)をし、「もし愛がなければ一切は無益である」という聖句が読まれた。
啓造は、はっとした。陽子を引き取ったのは、愛ではなく、夏枝への憎しみのためであり、病院を経営しているのも愛ではなく生活のためだった。愛不在で正義を求める者に救いなどないのだ――と。
陽子は北原と会うためにクラーク会館に出かけた。そこに達哉が現れ、しつこく陽子に出生の秘密を聞きただそうとし、そのまま強引に陽子を車に乗せて走り去る。そして徹と母の恵子は、彼女の交通事故以前から知り合いだったのではないか、陽子があまりに母と似ていることから、血縁関係があるのではないか、などと問いただす。北原は車で彼らを追っていた。そして、彼らのすぐ後ろに車をつけて、降りた瞬間、達哉が車をバックさせ、北原は片足をひかれてしまったのだった。
彼は外科病院に運び込まれたが、膝下動脈が切れてしまっており、膝下から切断することになった。陽子はその間、ずっと彼に付き添い、少し落ち着いたので一時旭川に帰った。
彼女は旅に出、宿から流氷を見ていた。そしてふと啓造から渡された手紙の内容を思い出した。それは弥吉からの手紙で、かつて自分が戦場で上官の命令により、心ならずも現地の女性に残虐行為を働いたことのざんげと、次男の達哉が北原まで事故に巻き込んだことへの謝罪、そして妻の不貞を20年前から知りつつゆるしていたが、それは自分には妻を責める資格がないからだと結ばれていた。
陽子は車で網走港に向かい、燈台の見える崖の上から下に広がる流氷を眺めた。と、自分に会いに病院に来た実母の恵子のことを思った。彼女は「陽子さん、ゆるして」と言ったのに、自分は顔を背け、その場を去ったのだった。
彼女がよろめきつつ、歩いて行くのが見えた。陽子は流氷を凝視した。そして、この流氷のように冷え切った自分の心を思い、彼女は今初めて自分の心にある「原罪」というものが分かった。
――と、その時、奇跡が起きた。天から一条の光が射し、流氷がサーモンピンクに染まっていった。次の瞬間、流氷の底から真紅の血が滲(にじ)み出し、それがポトリ、ポトリと流氷の上に垂れていった。と、血のような真紅が火焔(かえん)のようにめらめらと燃え上がった。
(天からの血)そうつぶやいた瞬間、陽子はイエス・キリストが十字架で流される血を目の前で見たように思った。そして、長い間切なる思いで求めていた「罪のゆるし」の確かなる証拠を得たのだった。彼女は今見た流氷の驚くべき光景を全ての人に告げたかった。そして実母の恵子に心からこう言いたかった。(おかあさん!ごめんなさい)
見どころ
陽子は、自分が不貞の中に生れたことが辛(つら)かった。(中略)いっそのこと、殺人犯の佐石の子として生れて来たほうが、よかったとさえ、陽子は思った。(中略)少なくとも、裏切りの中に生れなかっただけでも、しあわせのような気がする。(上・黒い雪、41ページ)
「わたし、やっぱり傲慢(ごうまん)だったのね、おとうさん。自分のことは、自分で知っているつもりだったの。でも、何もわかっていないのね。親切なつもりの自分に、意地悪の自分がひそんでいるかも知れないなんて、思っただけでもこわいわ」(上・延齢草、92ページ)
「おにいさん。不義によって生れたということが、わたしの心に、どんな暗い影を落しているか、おわかりになる? わたしはまるでどぶの中で生れたようなものよ」(上・草むら、214ページ)
「つまり、人を殺した、強盗に入った。これが吾々(われわれ)には大きな石なんだね。しかし、うそをいった、腹を立てた、憎んだ、悪口をいった、などという日常茶飯事は小石なんだな。つまり、ひとには始末のつけようがないんだね」(中略)啓造は、自分が無数の大小の石を、毎日積上げて来たような気がした。(上・あじさい、234ページ)
(三井恵子の言葉)「不義の子を産んだことを知られたくなくて、その子を乳児院にやった罪は、いったい何年の時効なの?(中略)わたしの良心は、時効の年限が来るより前に、とうに眠ってしまっていたのよ」(上・交差点、266ページ)
<でも陽子さん。わたしはその「かわいそうな事情」を持った子供なのでした。(中略)ただ、わたしは自分の実の父を、一時非常に憎み、呪い、心の中で責めつづけたことがありました。しかしわたしは、相沢の父母に連れられて教会に通い、そこでキリストの贖罪を知ったのです。(中略)>(相沢順子の)手紙は長々とつづいている。やがて読み終えた啓造は、しばし目をとじた。(中略)(復讐の道具に子供をもらう。何とおれは恐ろしい人間なのか)(下・命日、151~152ページ)
「かわいそうですわ、ルリ子は。ここにうつぶせになって死んでいたのが、昨日のことのようですわ」誰へともなく、夏枝はいった。「・・・たった三つの子の首をしめるなんて、佐石という男も、ひどいことをしたものですわ」あっという間もなかった。(中略)順子の顔がみるみるうちに、紙のように白くなった。(中略)順子はへたへたとその場に崩おれた。(中略)「ごめんなさい。ルリ子ちゃんを殺したのは、わたしの父です(中略)わたし、佐石土雄の娘です」(下・石原、216~217ページ)
既に二十年前に、三井弥吉は妻の裏切りを知っていたのだ。知りながら許していたのだ。なぜ許し得たのか。それは、妻を責める資格が自分にはないという、罪の自覚によるものではないか。(下・燃える流氷、338ページ)
いかなるプリズムのいたずらか。とにかく、いま、確かに現実に陽子の目の前に、流氷はめらめらと焔(ほのお)を上げて燃えているのだ。(中略)またしても、ぽとりと、血の滴るように流氷が滲んで行く。(天からの血!)そう思った瞬間、陽子は、キリストが十字架に流されたという血潮を、今目の前に見せられているような、深い感動を覚えた。(中略)陽子は、いまこそ人間の罪を真にゆるし得る神のあることを思った。(下・燃える流氷、365~367ページ)
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。