キリスト教が土着していない日本社会の中に初めて「原罪」というものを大衆小説の形で示した記念碑的作品。人間が生まれながらに持つ罪というものを分かりやすく一般の人に示し、福音をより身近に感じさせる『氷点』によって日本文学はその方向性を大きく変えたといえよう。
作品について
この小説は、無名の主婦が朝日新聞の懸賞小説に当選したことで当時大きな話題を呼び、1964年12月9日から翌年11月14日まで朝日新聞の朝刊に連載され、その後単行書となった。当時の読者にとって「原罪」というのは聞き慣れない用語であるために、「原罪はゲンザイと読む」との注釈が付けられたことも記録されている。人の心の中にあって、溶けぬ氷に例えられる「恨み」「憎しみ」「嫉妬」といった罪の様相が主題となっている。
『氷点』は一組の男女の不倫から幕開きとなるが、読み進むにつれてそのテーマは重さを増していき、人間存在の意味にまで読者を導いていく。そうしたことから、この小説は現代文学のテーマの貧困と文学作品の不毛性を浮き彫りにしたとある評論家は述べている。そうした意味でも、『氷点』は日本におけるキリスト教文学の可能性を信じさせてくれる新しい文学といえよう。
著者について
三浦綾子(1922~1999)は北海道旭川市に生まれ、小学校教員として軍国主義教育を行ってきたが矛盾を感じて退職。その後、肺結核や脊椎カリエスを患い闘病生活を送る。クリスチャンの青年・三浦光世と出会って以来、キリスト教信仰を持つようになり、彼と結婚。1964年、朝日新聞社による1千万円懸賞小説に『氷点』が当選し、以後クリスチャン作家として活躍する。『塩狩峠』『海嶺』『母』など多数の作品を世に送り出した。
あらすじ
辻口病院院長の啓造の妻である夏枝は、眼科医の村井と不倫関係にあった。啓造と夏枝の間には徹とルリ子という2人の子どもがいる。
ある日、夏枝と村井が病院の応接室で情事にふけっている間に、幼いルリ子が一人で川原に遊びに行き、何者かに襲われ殺されてしまう。その後、警察からの連絡では、ルリ子を殺した犯人・佐石は逮捕後、犯行を自供したが、留置所で自殺したということだった。
佐石には幼い娘が残されたという話も伝わってきた。辻口一家はやり場のない怒りと悲しみにさいなまれ、夏枝は心の安定を失ってしまった。
そんな時、夏枝の友人・辰子が遊びに来て、啓造に彼の友人・高木と会った話をした。高木は乳児院で嘱託として働いているが、そこに犯人の子が預けられているというのである。
ふと啓造は、その子を引き取ってみたいという思いになった。実は、彼は学生時代から「あなたの敵を愛しなさい」という聖書の言葉を座右の銘としていたが、それを実行できるかどうか試したかったのである。
一方、夏枝は寂しさのあまり「女の子がほしい」と口にするようになり、啓造に高木に頼んでくれと言う。たまたまその直後に、啓造は夏枝と村井の不倫の決定的証拠を見てしまったことから、夏枝に対してすさまじい憎しみを覚えた。そこで何も知らさずに犯人の子を引き取り、夏枝に育てさせる決心をしたのだった。
そんなこととは知らず、夏枝はこの子を片時も腕から離さず、自ら「陽子」と名前を付け、夢中でかわいがるのだった。長男の徹も妹が来たことを喜び、しばらくは辻口家にも平安が訪れたように見えた。
こうして陽子はすくすくと成長し、7年が経過した。彼女は天使のような子だった。ある日、雪合戦をしているとき、雪の中に石を入れて投げつけた子がいて、それが肩に当たってけがをしたが、その子が叱られるとかわいそうだと思い名前を言わない。彼女は悪意というものを全く知らないかのようであった。
それは12月の中旬のある日のことだった。夏枝は掃除のために啓造の書斎に入り、机の上に日記帳が置いてあるのを見た。何気なくパラパラとめくって再びサックに戻そうとしたとき、中から折りたたんだ手紙が落ちた。高木に宛てたものだった。
読むうちに彼女の顔色が変わった。そこには7年間の苦しみが記してあり、自分は夏枝と村井が不義をしたことがどうしても赦(ゆる)せないこと、彼らが密会をしている最中にルリ子が殺されたことを知り、何も知らせずに犯人の子を引き取って夏枝に育てさせようと決心したいきさつが書かれていた。
恐ろしい絶望と衝撃が夏枝を打ちのめした。彼女は帰ってきた陽子に踊りかかり、「陽子、一緒に死んで!」と叫びつつその手をのどにかけて締め上げる。未遂に終わったものの、これは陽子にとっても衝撃的な出来事だった。
その日から、夏枝にとって陽子は疎ましい存在となり、憎悪の対象に変わっていった。3月3日のひなまつりの日、陽子は学校の学芸会で白い服を着て踊ることになり、夏枝は白い服を作ってやる約束はしたものの、わざとそのままにしておいた。陽子のために何かをしてやるという気持ちが全く失われてしまったのだった。
ついに陽子は一人だけ赤い服を着て家を出た。そんな陽子を徹はいたわり、必死で守ろうとするのだった。
その年の9月30日。京都で学会があるため出かけた啓造は、暴風雨のため連絡船沈没の事故に巻き込まれる。九死に一生を得た彼だが、その折一人の女性に自分の救命具を与えて死んだ宣教師の行為に心打たれ、「あなたの敵を愛しなさい」という聖書の言葉は単なるスローガンではなく、生き方そのものに関わるものであることを知ったのだった。
一方、夏枝は日に日に陽子に対し疎ましい思いを募らせていく。ある時は給食費を納める日であるにもかかわらず、わざと陽子にお金をやらない。やむなく陽子は辰子の家に行き、雑用をさせてもらってお金を稼いだ。
また、この頃から徹が陽子を異性として意識し始めたことに夏枝が勘付くと、啓造と教育のことで意見を衝突させ、ついに恐ろしい言葉を投げつけるのだった。
「まさか、私はルリ子が陽子の父親に殺されたとは思いませんでした。私が何も知らずに犯人の子を育てるのを平気で見ているほど、私が憎いんですか!」と。こうして二人は相手を非難し続けるのだった。
また、夏枝は陽子が卒業式で答辞を述べることを不快に思い、こっそりと原稿を白紙にすり変えておいた。陽子がうろたえ、泣き出すことを期待していたのだが、陽子はしばらく無言だったが、やがて原稿なしで立派に答辞を述べ、嵐のような拍手を浴びた。夏枝は自分の敗北に打ちのめされる。
陽子は高校1年。徹は大学2年になった。この頃、彼は陽子にひたむきな愛を注いでいたが、自らの気持ちに不安を覚え、友人の北原を家族に紹介し、故意に陽子に近づけるようにした。思惑通り北野と陽子は互いに引かれ合い、好意を持つようになった。
こんな二人を見ているうちに、またしても夏枝はねたましい気持ちになり、何としても妨害しようとする。彼女は陽子が北原に出した手紙を握りつぶし、二人の間に行き違いを生じさせる。また、わざと陽子の前で北原をけなし、彼に恋人がいることをほのめかし、陽子の心を傷つけた。
そしてある日、楽しそうに話をする二人に、互いに買いかぶっていると言って絡んだ。我慢ができなくなった北原は、ついに夏枝に自分たちが交際することに何か差し障りがあるのかと抗議する。これこそ夏枝の思うつぼだった。
彼女は「差し支えがあるのは陽子のほう」と前置きしてから言った。「この人の父親は、徹の妹を殺した犯人なんですよ」と。北原はすぐに札幌に行って高木から事情を聞くと言って飛び出して行く。陽子にとってはこれが忍耐の限界だった。全ての望みが失われた今、彼女は父母・北原・徹に宛てて3通の遺書を残して一人川原に行き、服毒自殺を図ったのだった。
家に帰った徹が3通の遺書を見つけ、辻口家は大騒ぎになった。家に運ばれ、必死の治療が施されているにもかかわらず、陽子はコンコンと眠り続けていた。そこへ高木と北原が駆け付けてきて、陽子の出生が明らかになった。
彼女の両親は、中川光夫と三井恵子だった。恵子が光夫と恋愛し、夫の出征中に妊娠し、終戦になり夫が帰ってくる前に――と高木に相談し、ある産院でひっそり子どもを産んだ。それが陽子だった。その後、光夫が病死したので、恵子はやむなく陽子を乳児院に預けたのだった。
高木が犯人の子だと言って啓造に陽子を渡したのは、彼が口癖のように「あなたの敵を愛しなさい」という聖句をモットーとしていたので、啓造なら犯人の子でなくても誰の子でもかわいがるだろうと思ったからであった。
全ての事実が判明した今、啓造はしみじみ人間は皆罪人であることを思い、夏枝は陽子に赦しを乞うて泣き伏すのだった。昏睡状態のまま3日が過ぎ、今夜が山という時だった。突然奇跡が起きた。看護師が注射を打ったとき、初めて陽子は苦しそうに顔をしかめた。啓造が脈を取ると、正常に戻っていた。助かるかもしれない――という希望が皆の胸に生まれた。
見どころ
今もまた啓造は、ルリ子が殺された日は、夏枝と村井が応接室に二人きりでいたことにこだわっていた。「手は下さなくても村井と夏枝がルリ子を殺したことになるのだ」 啓造は声に出してそういうと書斎を出た。(上・ルリ子の死、49ページ)
「誰だって母親なら、わたくしと同じですわ。(略)女の子を育てたいんですの。わたくし、女の赤ちゃんがほしいんですの、ね、おねがいですわ」(上・線香花火、82ページ)
(そうだ! 相談せずに引きとるのだ。夏枝は何も知らずに、かわいがることだろう。(略)何も知らずに育てた子が、いつの日か犯人の子と知った時、夏枝は一体どうなるだろう。)(上・雨のあと、121ページ)
読むうちに、夏枝の顔色が変わった。(略)一体どんな理由があるにせよ、自分の娘を殺したその犯人の子を、何で引きとる気になったのだろうか。(略)わたしは、「汝(なんじ)の敵を愛せよ」をかくれみのにした、みにくい男なのだ。君ばかりか自分自身をもダマしながら、実は夏枝をゆるすことができなかったのだ。陽子を引きとったのは、夏枝に、佐石の子を育てさせたいという残忍な思いがあったことを、わたしは白状してしまいたいのだ。高木、夏枝は7年前にわたしを、うらぎっているのだ。(略)しかも、夏枝はその後も、村井と通じていたのだ。(略)とにかく、わたしは陽子を愛するために、引きとったのではないのだ。佐石の子とも知らずに育てる夏枝の姿をみたかったのだ。(上・激流、233~235ページ)
以前は陽子に呼ばれると、何をおいても先(ま)ず陽子の言葉に熱心に耳を傾けた。それが今ではおざなりになった。陽子のために何かしてやるという気持ちが失われていた。(略)陽子は、白い服のことを一言も言わずに家を出た。(略)「この赤い服だってきれいよ。学芸会に出て一生けんめいに踊るのがうれしいもの」(上・白い服、283~298)
(愛するとは・・・)ふっと、洞爺丸で会った宣教師が思い出された。(あれだ! あれだ! 自分の命を相手にやることだ)啓造は思わず膝を打った。(下・雪虫、18ページ)
「あなた! 何で陽子なんか引きとりましたの」「何でって、君がいい出したんだよ。ルリ子の四十九日も終わらないうちに、女の子がほしい、ルリ子と思って育てるから、ぜひ高木に頼んでくれと、いったのは君だよ。忘れたのかね」(略)「おっしゃる通りですわ。まさか、ルリ子が陽子の父親に殺されたとは、夢にも・・・夢にも思いませんでしたから・・・」啓造は不意に棒で足をすくわれたように、呆然とした。(下・淵、115~116ページ)
啓造は陽子をみた。陽子は微笑しながら二人の話をきいている。「陽子はどうだね」「自殺のこと? わたしって、すごく生きたがりやなの。死にたくなんかないの。殺されたって生きているかも知れないわ」(下・とびら、317~318ページ)
「北原さん。この人の父親は、徹の妹を殺した犯人ですのよ」 夏枝の声が上ずってかすれた。(略)「うそだ!」 北原が叫んで、陽子のそばにかけよった。(下・とびら、330~331ページ)
おとうさん、おかあさん、どうかルリ子姉さんを殺した父をおゆるし下さい。(略)私は今まで、こんなに人にゆるしてほしいと思ったことはありませんでした。けれども、今、「ゆるし」がほしいのです。おとうさまに、おかあさまに、世界のすべての人々に。私の血の中を流れる罪を、ハッキリと「ゆるす」と言ってくれる権威あるものがほしいのです。(下・遺書、343ページ)
◇
栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。