キリストの贖罪(しょくざい)愛を、神学や聖書註解の視点から説明するのではなく、大衆小説の形で描いた『聖衣』(原題:The Robe)が出版されると、全米の人々が驚嘆し、瞬く間に世界のさまざまな言語に翻訳された。映画化されて以来、日本においても高く評価され、教会の垣根を越えて万人に愛読されている。『聖衣』は、まさにキリスト教文学の白眉といえる。
作者について
作者のロイド・キャッセル・ダグラスは1877年、米インディアナ州コロンビアシティーに生まれた。牧師であった父の勧めで、オハイオ州のウィッテンバーグ・カレッジを卒業後、神学校に学び、牧師となった。以来、1933年に聖ジェームズ教会での牧会を最後に、著述生活に転じるまで、ほぼ30年間、牧師として各地の教会を歴任する。
著述生活に入った初めのうちは、宗教や思想に関するエッセイ、論文を書いていたが、50歳を過ぎてから、突然小説を発表して世間を驚かせた。『心のともしび』『白い旗』『クリスマス前夜の帰宅』などを発表し、1943年に出した長編小説『聖衣』は、ベストセラー作家として彼の名声と地位を不動のものとした。
続いて1949年に発表したシモン・ペテロの生涯を描いた『聖なる漁夫』も好評で、多くの人々に愛読された(関連記事:『聖なる漁夫』 ペテロの生涯とアラビア王女のロマンスが交錯する物語)。その2年後の1951年、使命を全うして天国に凱旋(がいせん)した。
あらすじ
ローマの元老院議員マーカス・ガリオの息子マーセラスは、正義感の強い23歳の護民官だった。妹ルシアはローマ皇帝ティベリウスの孫娘ダイアナと仲良しであり、奴隷ディメトリアスは25歳で、マーセラスとは主従というよりは友人のような関係であった。
ある時、些細なことで皇太子ガイウスの機嫌を損じたマーセラスは降格され、ガザの守備の隊長として異動を命じられる。彼は慌ただしく家族に別れを告げ、ディメトリアスを従えて出発した。ユダヤ最大の年中行事「過越の祭り」の日、治安維持のためエルサレムに派遣されたマーセラスは、イエスの磔刑(たっけい)に関わることになり、その十字架の下で仲間の兵士たちとイエスがまとっていた上着をくじ引きにして興じていた。賭けに勝った彼は、その上着を手に入れたが、それ以来罪なき者に刑を執行した良心の痛みから、次第にその心は病み、ついにうつ病になってしまった。
マーセラスはダイアナと恋人同士で、彼女の取り計らいによりローマに戻ることを許された。廃人同様になって帰ってきた息子の身を案じた父親のマーカス・ガリオは、病気静養のためディメトリアスを付けて、ギリシャに静養に行かせた。しかし、マーセラスの心の闇は深くなる一方で、ついに彼は自殺を決意するが、短刀を取り出そうと背囊(はいのう)を探ったとき、図らずもそこにイエスの「聖衣」を発見する。夢中でその衣に触れるうちに、いつしか彼の心の病は癒やされていったのだった。
一方、ディメトリアスは旅館の娘セオドシアと愛し合うようになった。そこへガイウスの寵臣(ちょうしん)クインタスが、「ユダヤ人が救世主と呼ぶイエスという人物を調査せよ」との皇帝からの勅状を持ってやって来た。マーセラスが別室で皇帝への返事をしたためている間に、クインタスはセオドシアの美しい姿を見て乱暴しようとする。これを見たディメトリアスは、一撃のもとに彼を殴り倒す。そのまま逃亡せざるを得なくなった彼は、飲まず食わずのまま旅を続け、エルサレムに着き、ベニヨゼフという織匠(しょくしょう)のもとに身を寄せる。彼の店はクリスチャンの集会所となっており、次第にディメトリアスは感化され、ステパノを通してイエスの十字架の愛を知るのだった。
数日遅れてエルサレムに着いたマーセラスは、ユストというユダヤ人に案内を頼み、ガリラヤ中を調査して歩いたが、次第に役目を忘れ、飢え渇くようにイエスの教えを求めるようになる。そしてカペナウムでディメトリアスと巡り会い、共にエルサレムに行く。
2人が旅館に落ち着くと、ディメトリアスは以前親切にしてくれたステパノに会いたくなり、ベニヨゼフの家に行っても会えなかったが、すぐ近くの二階座敷の旅館で会うことができた。ステパノは、ディメトリアスと共にマーセラスのいる旅館まで来てくれ、イエス・キリストの救いを語り、彼の揺るがぬ信仰と温かな愛の心はマーセラスに大きな影響を与えた。しかしこの直後、ローマ皇帝の名により「キリスト教禁止令」が発令され、この地域のユダヤ人指導者の手により、クリスチャンに対する迫害が起こり、ステパノは石打ちの私刑に遭って殉教してしまう。
ローマに帰ったマーセラスを家族は喜び迎えた。報告を兼ねてカプリの宮廷に参内(さんだい)したマーセラスは、イエスの復活を証言し、彼こそ全ての人の救い主であると堂々と述べて「聖衣」を見せるが、それはティベリウス帝を激怒させてしまった。そしてティベリウス帝は、マーセラスと自分の孫娘ダイアナが愛し合っていることを知りながら、彼女をガイウスに与えると言って脅した。
こうした中にあっても、マーセラスとダイアナはしばしの間会うことができ、互いの愛を確かめ合う。マーセラスは彼女にキリストを信じることがいかに素晴らしいかを語って聞かせたが、それはダイアナを悲しませるだけであった。そして、マーセラスは皇帝の命令により追放となった。
彼はローマを離れ、旅をするうちにアルビノに着く。そこでメロン畑の経営者カエソのもとに身を寄せ、彼の書記となって働くことになった。彼はこの家の人々と家族同然となり、自分が体験したイエス・キリストの恵みを語ったところ、カエソの家族も、農家の人々も皆、キリストを信じるようになった。
一方、カプリではガイウスの死が報じられ、ティベリウス帝は自分の亡き後、おいに当たるカリグラに帝位を譲る決意をする。ディメトリアスは皇帝の命令もあり、ずっとダイアナを守っていた。2人はマーセラスの死がうわさされても耳を傾けずにいたが、ある日、マーセラスがアルビノで生きていることを知り、カプリを脱出してアルビノへと向かった。
やがてティベリウス帝は崩御。カリグラのローマ皇帝としての戴冠式が華々しく行われた。その後、カリグラ帝は血眼になってダイアナを捜索するが、手掛かりがない。この時、亡きガイウスの寵臣クインタスは、以前の恨みからディメトリアスがダイアナを誘拐したのだと皇帝の耳にささやき、マーセラスは既に国が禁じる宗教を信じるクリスチャンの一味であると告げた。
カリグラ帝は、即刻2人を見つけ出して殺すよう命じた。既にローマに帰っていたマーセラスは使いをやり、忠実な召使いマーシポーに、自分はクリスチャンの集会所になっているアッピア街道沿いのユダヤ人墓地にいることを告げる。マーシポーはマーセラスの元に飛んで行き、主人の無事な姿を見て喜ぶ。マーシポーも既にキリストを信じていた。
一方、アルビノにいたディメトリアスは、主人の身を案じてローマに戻るが、途中で大けがをし、ガリオ家に運び込まれる。マーセラスは使徒ペテロを呼びに行き、その奇跡によってディメトリアスは癒やされた。その後、ディメトリアスは自由の身となり、マーセラスとガリオ家の家族に見送られ、セオドシアの待つギリシャへと旅立った。マーセラスはアルビノに戻り、その地でカエソ夫妻を仲人として、ダイアナと結婚式を挙げる。
ローマに帰ったマーセラスとダイアナには過酷な運命が待っていた。マーセラスは、既にクリスチャンになっていたことが皇帝の耳に入っていたので、反逆罪で逮捕され投獄された。彼はカリグラ帝の前に引き出され、信仰を捨てるよう強要されたが、堂々と信仰を表明し、抱えていたイエスの「聖衣」を見せたので、ついに彼は処刑されることになった。
一方、この時ダイアナもカリグラ帝の命令によって宮廷で行われる宴会に出席しており、その脇に座していた。彼女はマーセラスが死刑の宣告を受けるのを聞くと、つと立ち上がり、彼と並んで立った。そして、マーセラスは既に自分の夫であること、自分も同じくクリスチャンになったことを告白した。さらに、国民の犠牲の上に繁栄を築き、破滅の一途を辿ってきたローマ帝国では、もはや一刻も生きていたくはないと述べたのだった。
やがてカリグラ帝は2人に死刑執行命令を下し、2人は手を取り合って刑場への道を歩き始める。最後にダイアナが、マーセラスの手から「聖衣」を受け取ると、道端に立って見送るマーシポーの腕にそれを投げ、使徒ペテロに渡してほしいと言って託すのだった。
見どころ
(百卒長のポーラスは)真中の十字架の側に乱雑においてある褐色の外衣を顎で指した。「あの衣をとってくれ。ちょいと見たいのだ。」(中略)「悪くないじゃないか」と言って、つき出して見せた。「田舎で織ったものだ。くるみの汁で染めてある。あいつにはもう用はないだろう。おれがもらってもいいだろうな。」(中略)「君がとるというのもどうかな。」 マーセラスは、どっちでもよいといった調子だった。「何かになるなら、そいつを賭けようようじゃないか。」 そう言って彼は、ポーラスにさいころのカップを渡した。「数の多いほうが勝ちだ。君の番からだよ。」(中略)それ以上の目が出ずに、順番は回って、カップはマーセラスのところへきた。「両方とも六だ!」 彼は叫んだ。「ディメトリアス、お前、その衣をあずかってくれ。」(第6章、上巻・198~199ページ)
「おれはよごれている――身体の外も内も。(中略)あの男が、この人々を赦(ゆる)せと神に向かって呼びかけたとき、お前はいたのか。(中略)みんなが教えてくれたのだ。そう言ったあとで、彼はおれをじっとみつめた。あの眼が、いつまでも頭にこびりついて、忘れられないのではないだろうか。」 ディメトリアスは、マーセラスに片手を回し、静かに落ち着かせようとした。はじめて彼は主人の眼に涙が浮かんでいるのを見た。(第6章、上巻・206~207ページ)
はっと彼は手をとめた。そこにあったのだ。――あの物が! 彼は、じりじりと後ずさりし、壁によりかかった。(中略)数秒間、マーセラスは釘づけされたように立ちつくし、長い間恐れ憎んでいた衣の中に指を突っ込んでいた。やがて寝椅子の端に腰をおろすと、おそるおそる衣を引き寄せた。意味もなくじっとそれを見つめた。光にかざしてみた。露わな腕にそっとこすりつけてみた。(中略)何かわからぬ救いの感じ――すべてから救われた感じだった。大きな重荷がとり除かれたのだ!(第8章、上巻・305~306ページ)
「イエスは――その衣を通して――触ったのを感じたというわけですか。」 マーセラスは叫んだ。ユストはうなずいた――そしてつづけた。「(中略)リジアは、うなだれ、両手で顔を覆いかくして、そろそろと近づいてきました。イエスの前の地面にひざまずいて、イエスに触れたものは自分だと告白しました。それから、頬に流れ落ちる涙をたたえた目を上げて叫びました。『主よ、私の病気は癒やされました。』(中略)マーセラス、――その女は、まるで、目のくらむ光でものぞきこむかのように、イエスをふり仰いでいたのです。身体は嗚咽(おえつ)で震えていたが、顔は恍惚(こうこつ)となっていた。」(第16章、中巻・242~243ページ)
「その方、イエスと愛し合っていましたの?」「そうです――誰もがイエスと愛し合っていました。」「わたしのいう意味は、――おわかりでしょう。」「いや、そんなことはなかったと思う。そんなふうにではなく――。」 ダイアナは思いに沈んで、頬をマーセラスの袖にすりよせた。「すべての人たちと。」 マーセラスが言った。「たぶんイエスは――ひとりだけ――他の人たちよりも愛することは、まちがっていると思ったのね。」(第21章、下巻・161ページ)
ダイアナは、皇帝のデーブルの席をはなれ、誇らかに確信にみちてきざはしを降り、マーセラスの傍らにならび立った。彼は、やさしく彼女を胸に抱いた。「いや、ダイアナ、いけない!」 あたりに人がいるのも知らぬげに、彼は言った。「僕のいうことをきいてくれ! こんなことをしてはいけない! 僕はよろこんで死ぬ。しかし君が君の生命を危うくする理由はないのだ! さよならを言って――さあ、向こうへ行ってくれ!」(中略)「陛下」 彼女は落ちついて言った。「わたくしも、やはり、クリスチャンでございます。マーセラスはわたくしの夫でございます。一緒にまいってよろしゅうございましょうか。(中略)わたくしは、人民の幸福になんの関心ももたぬ方に治められて、これまで破滅の途を辿ってきた帝国には、もはや一時間も生きていたくないのでございます。」(第25章、下巻・362~363ページ)
ダイアナとマーセラスは、手を携え、衛士たちと歩調を合わせて歩いて行った。ふたりとも、蒼(あお)ざめてはいたが、ほほえんでいた。(中略)老マーシポーは、涙に顔をぬらしながら、人ごみの隅から前に泳ぎ出た。マーセラスが何かダイアナの耳にささやいた。彼女はほほえみ、そしてうなずいた。ふたりの衛士のあいだから、彼女は老人の腕の中に聖衣を投げた。「大男の漁夫に渡してね!」と彼女は言った。(第25章、下巻・365ページ)
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。