それからしばらくして、ニコラスは革靴を作ってもらうために靴屋の店を訪れた。すると靴屋は、無事に2番目の娘の挙式が終わったことを告げ、今度も奇跡的に持参金が与えられたと話した。
「神様がある人に命じてお金を届けてくださったに違いありません。私は、窓からその使いが逃げていくのを見て追いかけたんですが、見失いました」
ニコラスはドキリとしたが、そ知らぬ顔で言った。「きっと神様は、あなたと娘さんが幸せになることを望んでいらっしゃるのですよ」
「ニコラス様」。その時、名前を呼ばれて顔を上げると、戸口の所に白ゆりのように清純な娘が立っていた。3番目の娘だった。
「よろしかったらお茶でも飲んでいってくださいませ。ちょうど今お菓子が焼けました」。「そうしてやってください。2週間後にはこの子もまた嫁に行ってしまいますので」。靴屋も言った。
この娘はコリントの市役所の会計係をしている役人に見初められたのだという。それで、少し無理をすれば持参金を工面してやれないこともない――つまり、いよいよとなったら店を処分してもいいと考えていると話すのだった。
ニコラスは、3番目の娘に導かれて台所に行った。娘は香りの良いお茶を入れ、焼いたばかりの菓子を彼の前に置いた。「これは『天使の微笑』というお菓子ですの。さ、召し上がってくださいませ」
それは焼き上げた生地の上に柔らかく煮たりんごをのせ、上からクリームと蜂蜜をかけたもので、ひと口頬張ると豊かな香りが口の中に広がった。ニコラスは夢中で食べてしまった。「これは亡くなった祖母がその親から教わったお菓子でございます。お気に召しましたでしょうか」。娘は少し恥ずかしそうに言った。
「おもてなしありがとうございました。あなたのお名前伺っていいですか」。「アンゼラと申します」。ニコラスはこの娘といろいろ話をし、靴屋の家をあとにしたのだった。
(これが最後になるなあ)ニコラスは翌日の深夜、また金貨の詰まった麻袋を担いで靴屋のもとに忍んで行った。そしてベランダに登り、窓から中をのぞき、なるべく音を立てないように金貨の詰まった袋を持ち上げると、窓から部屋の中に押し入れた。
ガッシャーン!――とあたりの空気を震わせるような大きな音がした。ニコラスは転がるように外階段を駆け下りたが、靴屋が大声を上げて家から出てくるのを見た。
(どうか見つかりませんように)そう念じつつ、彼はどこまでも駆けた。しかし、どこまでも靴屋は追ってくる。ニコラスは太っていたのであまり速くは走れず、すぐに追いつかれてしまった。
「お顔をお見せください。私どもの恩人であるお方」。そう言って靴屋は相手の服をつかみ、その顔を自分の方に向けさせた。
「これは・・・ニコラス様・・・」。靴屋は後ずさりして、ぼうぜんとつぶやいた。「どうしてこんなことを・・・」。それから、その足もとにはいつくばった。「ありがとうございます。あなたは私と3人の娘を助けてくださいました。あの子たちは、皆幸せになりました」
「いいんです。亡くなった養父(ちち)の意志を継いで、自分もできるだけのことをしたつもりですから」。ニコラスは手を差し伸べて、彼を立ち上がらせると言った。
「袋の中に金貨と一緒にダイヤモンドのネックレスを入れておきました。あの天使のようなアンゼラさんがいつまでも幸せでありますように」。そして、ニコラスは一礼すると立ち去った。
その次の週に、靴屋の末娘の婚約が無事成立し、二人がコリントに旅立ったといううわさがニコラスのもとに届いた。その翌日。靴屋のディメトリオは出来上がった靴を持ってニコラスを訪ねてきた。
そして礼を述べるとともに、どうしても渡してほしいというアンゼラからの手紙を彼に渡した。それには次のような感謝の言葉と共に、あの「天使の微笑」の作り方を記したレシピが添えられていた。
「情け深く、優しいニコラス様。このたびは本当にありがとうございました。『天使の微笑』大変お気に召したようなので、感謝と共にその作り方を記したレシピを添えておきます。遠い地からお幸せをお祈りしています」
*
<あとがき>
窮乏生活の末、娘たちを奴隷に売ろうとしていた靴屋を助けたニコラスは、嫁入りが決まった末娘アンゼラと店でしばし語り合います。
彼女はコリントの市役所に勤める役人に見初められて、旅立つ直前でした。彼女はニコラスに、秘伝の焼き菓子「天使の微笑」をごちそうしてから、そのレシピを父親の手に残して去っていったのでした。
後になってこの「天使の微笑」というレシピは、伝道者となったニコラスにとり、どれだけ助けとなったことでしょうか。ニコラスは、自ら焼き菓子を作り、貧しい子どもたちの家に配ることを思いついたのですが、それはこのアンゼラの「天使の微笑」がもとになったものでした。
神様はしばしば思いがけない人との出会いを用意してくださるもので、その時には分からなくても、その出会いが人生を変えるということはよくあることです。さらに、このアンゼラは不思議な導きで、後に夫ともどもクリスチャンになったのですから、神様の摂理は計り知れないものがあります。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。