紀元270年。ここは小アジア(現在のトルコ)のパタラという港町である。この町の豪商ガイオの屋敷からは、人々が笑いさざめき、祝杯を挙げる声が響いていた。
今日はこの家に養子が迎えられためでたい日であり、町の人々を集めて祝宴が設けられていたのである。この日は、金持ちも、貧しい者も招かれて楽しく飲み食いをし、ガイオに跡継ぎができたことを喜び合うのだった。
ガイオ一家は代々コロサイの町で金融業に携わって財を成し、富み栄えていた。4代目の当主はコロサイに商用で出向く他は、この美しい港町に建てた邸宅でゆったりと生活していた。
彼にはハンナというユダヤ人の妻がいたが、彼らは久しく子宝に恵まれず、寂しい思いをしていた。そんな折、コロサイの町に商用で出向いたガイオは、事故で両親を亡くし、その冷たい遺体の下で弱々しく泣いている赤ん坊を見た。
何とも言えないほどの憐憫(れんびん)の情に打たれ、思わず彼はその赤ん坊を抱き上げ、屋敷に連れ帰ったのだった。妻のハンナは手を差し伸べてその子を抱くや、もう手放すことができなくなった。
「どうだろう、ハンナ。私たちは子どもができず、ずっと寂しい思いをしてきた。この子を天からの贈り物と思い、養子にしようじゃないか」
ガイオの言葉に、彼女はうなずいた。「きっと、これは神様からの贈り物ですよ。こんなかわいい子、見たことないですわ」。その時、その赤ん坊は泣くのをやめ、二人の方を見てにっこり笑った。
「これは旦那様の日頃の善行をご覧になった神様が、ご褒美として授けられたのでございますよ」。この屋敷に長年奉公しているラオディキア生まれの執事アルキポが言った。
実際、ガイオの善行は町中に知られていた。困窮者には惜しみなく金を与え、身寄りのない者を見れば、自分の屋敷に住まわせ、使用人として使ってやった。孤児がいることを知ると、身元引受人になり、養子縁組をし、安心できる人の手に子どもを委ねた。
彼自身はギリシャ人だったが、妻のハンナは各地に離散したユダヤ人(ディアスポラ)の家系を持っていた。この妻の感化により、当時ローマ帝国が禁止令を出しているキリスト教に触れ、各地でひっそりと信仰を守っていたクリスチャンたちと交流するようになった。
そして、商用でコロサイに行ったとき、その地にできた教会に出入りし、次第にキリスト教に深く帰依するようになったのである。彼は自分の信条として、何よりも困っている隣人を助けることこそ最も神に喜ばれる行為と信じ、日々の生活の中でそれを実践してきたのだった。
こうしてガイオ家の養子となった赤ん坊はニコラスと名付けられ、養父母の愛情を一身に受け、すくすくと育っていった。5歳くらいになると、この子どもの上に際立った特徴が見られるようになった。一つは、いつもにこにこと人なつこい微笑を見せ、どんな人ともすぐに仲良くなってしまうことだった。
もう一つは、自分の持ち物を全て使用人の子どもや、近所の貧しい家の子どもたちに惜しげもなく与えてしまい、相手の喜ぶ顔を見て心から幸せそうにしていることだった。こうしたこの子の特徴は、7歳になる頃さらに顕著になってきた。
その日、ガイオが役場に用事があって出かけることになり、帰りに市場で何か買ってやろうとニコラスも一緒に連れて行くことにした。しかし、出かける間際になって、どこを捜してもその姿が見当たらない。捜し回った末、中庭に出てみると、ニコラスはすすけた顔をし、ひっきりなしに鼻水を手で拭っている物乞いの男の子と話をしていた。
「ねえきみ、これを落とさずにしっかり持って帰るんだよ」。彼はそう言って、自分の服や靴、帽子などをその子の腕に抱えさせた。それから、その子の下には小さな弟と妹がいることをちゃんと知っていて、自分が食べるためにとっておいたおやつのお菓子を紙にくるんで、その子の手に握らせた。
「これはね。はちみつ入りのお菓子で、とってもおいしいんだよ。みんなで分けて食べてね」。するとその子は、涙のたまった目でじっとニコラスを見つめたかと思うと、ペコリと頭を下げて一目散に駆けて行った。
「まあ、ニコラス坊ちゃんのなさり方といったら」。これを見ていたエチオピア人の家政婦スントケはつぶやいた。「並外れて情け深い心をお持ちだけれど、子どもとしてはちょっと度が過ぎてはいないかしらね」
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<あとがき>
いよいよ新しい連載『サンタ・クロースと呼ばれた人―聖ニコラスの生涯』が始まり、感謝にたえません。クリスマスイブに大きな袋を担いで子どもたちにプレゼントを配って歩くサンタ・クロースのおじいさんは、世界中の子どものアイドルになっています。このサンタ・クロースにはモデルがいたのかな――と考えたことが、彼の生涯の物語を書くきっかけとなりました。
そして、調べてみると、紀元270年に小アジアで生まれた(彼は孤児だったといわれていますが)聖ニコラスという人がどうやらそのモデルらしいということが分かりました。そして、赤い上着は司教(教会の監督)が着る服、大きな袋を背負って歩く姿は、貧しい子どもたちにお菓子を配って歩く姿がイメージ化された結果だということも分かってきました。
さあ、この伝説と実在の境界線に立つ聖ニコラスは、果たしてどんな生涯を送ったのでしょうか。ご一緒にたどってまいりましょう。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。