1. 山が動いた
ある調停事件において、お互いの言い分がかけ離れてしまい、なかなか合意できなかった。審理はもう3年も続いている。
「次回の期日に双方合意できなければ、調停を不調にし手続きを終了します」と裁判官から言われた。当方に対する相手方の「山のような不信感」が問題の解決をはばんでいた。そこで次回調停期日まで毎日、「不信感の山よ、消えてなくなれ!」と祈った。その期日の朝も祈って出廷し、調停中も心の中で祈り続けた。
しかし、双方の対立はますますエスカレートし、裁判官は「もはや合意の見込みがないので調停を不調にします」と宣言した。「やはりダメか」と、法廷を出ようとした時に、「裁判官、ちょっと待ってください。5分間だけ休憩して、依頼人と最後の話し合いをさせてください」と相手方の代理人が発言した。
なんと、休憩後に再開した審議において、相手方は全面的に譲歩して、調停が成立した。裁判官も驚いていた。「不信感の山」が動いたのだ。
2. 信仰によって歩む
目に見えない神を信じた者は、神を信じる信仰によって歩む(2コリント5:7)。人生の道のりには、行く手をはばむ激しい嵐や大きな川、高い山が待ち受けている。見えるところによって歩いていると、そこに留まってしまうか、引き返すか、延々と回り道をするか、最悪の場合は挫折してしまい、目的地に到達できないことが多い。だから信仰によって歩むのである。
信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。(へブル11:1)
信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(新共同訳、ローマ10:17)
3. 山を動かす信仰
それでは、山を動かすような信仰を持つにはどうしたらよいのか。
「神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう」。さらに「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」とイエスは言われた(マルコ11:22~24)。
「だれでも」と書かれていることに注目したい。特別な信仰の賜物を持っていなくても、キリストの言葉を疑わないで心から信じ、自分の言葉で命じれば、聖霊の力によって、だれでも問題の山を動かすことができるのである。
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