「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい」(エペソ4:29)
あるご夫婦が結婚50周年(金婚式)を迎えました。このご夫婦は仲の良いことで評判でした。特に夫の妻に対する心遣いは並大抵のものではありません。ある人が、夫に聞きました。「あなたは奥様に対してどうしてそんなに優しくできるのですか?」すると夫が答えてくれました。
「それはじゃのう、わしらの新婚旅行の時にまでさかのぼるんじゃよ。わしらはグランドキャニオンに行って、ラバに乗って渓谷の下まで行くツアーに参加したんじゃ。少し降りた所で妻の乗っていたラバがつまずいて、妻は危うく落っこちそうになったんじゃ。すると妻は静かに『1回目』と言ったんじゃ。それからもう少し降りた所で、またラバがつまずいたんじゃ。妻はまた静かに『2回目』と言ったんじゃ。それから500メートルほど行った所で、ラバがまたつまずいたんじゃ。その瞬間、妻は拳銃をバックから出すと『3回目』と言って、あっという間にラバの頭を撃ち抜いてしまったんじゃ」
「わしはびっくりして『何てことをするんだ!』と妻を責めたんじゃ。すると妻は静かに『1回目』と言ったんじゃ。それでわしは『わしとラバを一緒にするな!』と怒鳴ったら、妻はまた静かに『2回目』と言ったんじゃ。それでわしは今日まで、3回目が来ないように一生懸命妻に尽くしてきたっていうわけさ。あれ以来、わしら夫婦の間に波風が立ったことは一度もないのさ」
いやー、話はよく聞いてみないと分からないものですネ。一見幸せそうに仲良く見えるご夫婦の真の姿は、夫が妻に「3回目バン!」とやられないための必死の努力の結果だったんですネ。夫婦関係に限らず、人と人との関係を信頼や尊敬の絆で築き上げることは非常に難しいことです。良き関係を築き上げるための第一歩は、お互いの語る言葉に注意を払うことではないでしょうか。
米国の心理療法の大家フリッツ・パールズ(ゲシュタルト心理学の先駆者)の著書に『What Do You Say After Hello?』という本があります。訳せば「『こんにちは』の後に何と言いますか?」という題ですが、これは非常に含蓄のある題であり、人間関係に関する深い洞察に富んだ書物です。
「こんにちは」というあいさつは誰でも言えます。しかし、人間関係を深めるためには、さらにその後に言葉を付け加える必要があります。「こんにちは」の後に、例えば「お元気ですか」という問いかけの言葉をかけるとしたら、少なくともその答えを受け取るまではその場を立ち去るわけにはいきません。従って「お元気ですか」と尋ねるのは、それに対する応答を聞く関心を相手に寄せているから聞くのです。つまり「お元気ですか」という言葉により、相手との人間的交わりを持ちたいという声のかけ手の意志が、相手に伝わるのです。
国語学者の坂詰力治氏によると、「こんにちは」は本来「こんにちはいかがですか」「こんにちは良いお天気で」などという表現の「いかがですか」「良いお天気で」を省略した形であって、だから「こんにちわ」とは書かず「こんにちは」という補助詞の「は」が使われている。「さようなら」 が「さようならば、これでお別れしましょう」の省略形として使われるようになったのと同じで、 本来なら「こんにちは」の後には何らかの言葉が続くものである、ということです。
「こんにちは」の後に何か一言つけ加えることで、人の心も人との関係も変わり、また傷ついた心の癒やしが始まるのです。このような人の心を結ぶ言葉は、相手の状況を思い、相手を配慮する心があるときに言える言葉です。自分のことばかり考えているようではできないことです。
ある病院で「病人と医療者の人間関係」に関する講演をしたときのことです。講演後に一人の職員の方が、次のようなお話を聞かせてくださいました。
「私たちは入院患者さんに食事を配膳するとき、一言患者さんに優しい言葉をかけるようにしているんです。というのは、優しい言葉をかけるときとかけないときでは、患者さんの食事の食べ具合や食べる量が本当に違うんですから。社会的に隔離されて寂しいときを過ごしている患者さんに、自分の家族のように一言声をかけると、やはり食欲が出るんですね」
食事はただ食欲を満たすだけでなく、人と人とのつながりを確認するときでもあるのです。相手に関心を持ってもう一声かけてあげることで、相手との新たな関係が始まるのではないでしょうか。
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