1. ふとしたことがきっかけで
ある時、教会の礼拝で証しを頼まれた。ちょうどその頃、インターネットでブログを始めたばかりで、福音を幅広く伝えるには非常に有効なツールであることを体験していた。そこで、教会の皆さんにぜひブログ伝道を始めるように強く勧めたところ、誰も関心を示してくれず、その場が非常にしらけてしまった。
その数日後「当日はせっかく良い証しをしてくださったのに、教会員の反応が全くなくて申し訳ありません。でも、その晩から私がブログを始めました」というメールをK牧師から頂いた。
しばらくしてK牧師のブログを読んでみると、アメーバブログ(通称「アメブロ」)という月間来訪者数(延べ)7500万人という日本最大級のブログメディアの中年層ジャンルで、アクセス数100番台に近い上位ランキングを占め、にほんブログ村(同じような総合ブログサイト)のキリスト教ジャンルでは常にトップを独占していたのでとても驚いた。K牧師にとって私の証しが「良いきっかけ」になったことを主に感謝している。
しかし、逆の事例もある。ある知人がたまたまフェイスブックで知り合った外国人から心の悩みを打ち明けられ、親身になって相談に乗っていた。そのうちに「あなたはとても親切な方で大変助かりました。実は、私はがんの末期で余命数カ月です。生涯独身で家族がいないため、これまでのお礼として、死んだときには私の全遺産を受け取っていただきたく、あなたを受取人として指定させていただきました。どうぞ、私に代わって、困っている方々を助けるために使ってください」と弁護士作成の遺言書を郵送してきた。
これを真に受けた知人は、その後相手から次々に金銭的な要求を受けるようになったが、何も疑わないでそれに応じているうちに数千万円も出費してしまった。ところが、その相手はプロの国際的ネット詐欺師であり、その遺言書は偽造されたものであった。今では、知人は自宅を売り払い、生活保護を受けて暮らしている。世の中には、この種の「悪いきっかけ」もあふれている。
2.「良いきっかけ」づくりをしよう
物事が大きく進展していくには、なんらかの「きっかけ」がある。その「きっかけ」をどのように受け止めていくかは本人の責任でもある。
「良いきっかけ」と「悪いきっかけ」とがあるとすると、私たちは常に「良いきっかけ」を他者に提供するべきではないだろうか。「最高に良いきっかけ」は言うまでもなく、福音を伝えることにより、人々がキリストを信じて、永遠の命を持つ「神の子」になるように導くことである。
私は学生の頃、校門の前で一枚のビラをもらった。普段はビラなどは受け取らず無視して通り過ぎていたが、なぜか、その時はふと受け取ってしまった。それは英会話の集会案内であった。そしてまた、ふと参加してみたら、英語のバイブルスタディーの集会であった。
宗教には全く興味がなかったので、キリストを信じるまでには長い年月がかかったが、あの一枚のビラを受け取らなければ、私はいまだに神を知らずに、人生をむなしくさまよっていたに違いない。そのビラを配り、私に「良いきっかけ」を与えてくれた方に心から感謝している。
「朝のうちに種をまけ、夕まで手を休めてはならない。実るのは、これであるか、あれであるか、あるいは二つともに良いのであるか、あなたは知らないからである」(伝道の書11:6)
「御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても、悪くても、それを励みなさい」(2テモテ4:2)
◇