今回の中部・関西への遠征で、私の話や歌に対して、意外な反応があって驚いています。
1)弁天山公園で「ラジオのパーソナリティーのような話し方で、聞きやすい」と、1時間以上ライブを聴いてくださった方からのお褒めの言葉。2)阪神の牧師会で「芸能関係の人のような話し方で、お上手で、聞きやすかったです」と一人の牧師からのお褒めの言葉。3)行く先々で「声がきれいですね」「歌がお上手ですね」などと言ってくださる方々からのお褒めの言葉などなど。
自分では、ただ目の前の人を愛し、イエス様の愛を伝えたいだけですし、私の心の中は「私や私たちではなくイエス様を伝えたい」と考えていますので、そのように言っていただくと、とても驚きます。
私が関西で、所々関西弁の真似をしてしゃべったとき、ある方に「お前、東京の人間だろ。変な関西弁を使われても、気持ちが悪くて聞いてられないよ」と苦言を呈され、叱咤激励されました。その後、一番自然な東京の言葉で話そうと決めてからは、嫌な顔をされたことがありません。
大阪で「まずは笑わせないと」と、お笑いネタを披露しようと努力しましたが、滑りました。ところが、おそらく私は天然なのでしょう。何も考えないで話すと「オモロイな」などと手をたたいて笑ってくれることがありました。
「私ではなく、イエス様」。私を通して、イエス・キリストが現れてくださることを願います。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」(ガラテヤ人への手紙2章20節)
自分の利益を求めて、自己実現を目指したり、人々の注目を集めようとしたりしても、うまくいかないものです。しかし、キリストに生きたいと願い、神実現、神中心を目指し、他者の利益を求めて生きていくならば、それは聖書が教える生き方ですし、人間本来の姿です。全てがうまくいくのではないかと思います。
私は、伝道をしながらいろいろなことを学んでいます。話し方や歌、接し方などなど。人は、自分に与えられた使命、職業などを通して神を礼拝し、神を現し、キリストに似ていくことを目指すときに成長があり、祝福があり、幸せがあると信じます。
今日も、あなたが生きている場所で、あなたに与えられた使命を果たしながら、神に向かって生きていきませんか。
「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です」(ピリピ人への手紙1章21節)
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