「この世は闇」とよくいわれます。聖書は、終わりの時代を生きる私たちに、曲がったこの世と調子を合わせてはいけないと勧めています。
「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」(1ヨハネ1:3)
使徒ヨハネは私たちに、①「イエス・キリストを伝える使命がある」ことと、②「イエス・キリストについて学ぶことは、神との霊的コミュニケーションである」ことを教えています。
1. 神は光
神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。(1ヨハネ1:5、6)
神は真実で正しい方です。神は光であって、暗いところが少しもありません。
イエス・キリストが使徒たちに語ったのは、人を生かす「いのちのことば」(1:1)でした。使徒たちは、御父と御子キリストのうちにある「永遠のいのち」(1:2)を実体験したので、「この永遠のいのちを伝えます」(同上)と言っているのです。
私たちは、クリスチャンの交わりを通して、キリストのうちにある、人を生かす「いのちのことば」を実体験するようになります。御父と御子のうちにある「永遠のいのち」を知ることになるのです。
2. 罪からの清め
しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(1ヨハネ1:7)
神は愛であり、真理の光です。クリスチャンが互いに愛し合い、真理の光の中を歩むなら、イエスの十字架の血は全ての罪から私たちを清めます。
3. 悪からの清め
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。(1ヨハネ1:8〜10)
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3:23)
聖書が「全ての人は罪人である」と言っているのに、私たちが「罪はない」と言うなら、自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。人の内側には、肉からくる悪があります。その悪を行うことで、人は罪を犯すのです。罪からくる報酬は死です(同6:23)。
「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖(あがな)いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(同3:24)
私たちが自分の罪を言い表すなら、神は光であり、真実で正しい方ですから、キリストの十字架の贖いの故に、行いでなくただ信仰により、価なしに、私たちを義と認めてくださるのです。
そしてキリストの十字架の血は、私たちの邪悪な良心を清めます。聖霊は、肉による全ての悪から私たちを清めます。
「私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか」(ヘブル10:22)
まとめ
神は真実で正しい方です。神は光であって、暗いところが少しもありません。
神の言葉は真理であり、少しも偽りがないように、私たちも真理に生き、偽りなく愛をもって互いに交わりを保つなら、イエスの血は全ての罪から私たちを清めます。
イエス・キリストの十字架の血は、私たちの邪悪な良心を清めます。聖霊は、肉による全ての悪から私たちを清めます。
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