人はいつも善や愛を全うしようと努力しますが、いまだに善を全うした人を見たことがありません。聖書は、人について「義人はいない」(ローマ3:10)、「神の愛がありません」(ヨハネ5:42)と証言します。そして「キリストを信じる信仰による義」(ピリピ3:9)を伝え、「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」(ローマ5:5)と約束しています。
1. 罪と義
私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための――私たちの罪だけでなく、世全体のための――なだめの供え物です。(1ヨハネ2:1、2)
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです」(1ヨハネ4:9)
キリストは、この世で人として生まれ、十字架の死にまで従い、神の義を全うされました。イエス・キリストの身代わりの死により、神の愛が私たちに示されたのです。
私たちには、御父の前で弁護する義なるイエス・キリストがおられます。イエスの十字架の贖(あがな)いによって罪を赦(ゆる)された私たちは、イエスに見習い、罪を離れて義のために生きるべきです。
2. 神の命令と真理
もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。(1ヨハネ2:3、4)
「神はモーセに、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ』と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです」(ローマ9:15、16)
神は、ご自身の命令を守る信仰者を憐(あわ)れみ、慈しみの愛で癒やし、救い出してくださいます。
4節にあるとおり、たとえ知性的に神を知り、神に祈り、行いの努力をしても、神の命令を守らない者は、真理がその人のうちにありません。その人は偽りのキリスト者なので、神の憐れみを受けることができず、慈しみの愛による癒やしも救いも起こりません。
3. 御言葉と神の愛
しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。(1ヨハネ2:5、6)
神の御言葉を守っている者のうちには、神の愛が全うされています。神の愛がその人を通して現されることにより、その人が神のうちにいることを人々に確信させます。信仰者は御言葉を守り、キリストが歩まれたように、神の愛に歩む義務があります。
「イザヤがこう預言したとおりです。『もし万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じものとされたであろう』・・・義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です」(ローマ9:29、30)
イスラエルは、偶像崇拝の罪で幾度も滅ぼされそうになりました。しかし、偶像に膝をかがめない残された民により、主が子孫を残され、ソドムやゴモラのように滅されませんでした。
神の義を追い求めなかった私たち異邦人は、イエスをキリストと信じる信仰による義を得て、神の憐れみと慈しみにより癒やされ、救われました。私たちは、神の愛が証しされるために、義なるキリストが歩まれたように歩まなければなりません。
まとめ
私たちには、御父の前で弁護する義なるイエス・キリストがおられます。イエスを信じる信仰によって義とされた私たち罪人は、日々御言葉を守り、自分のうちに神の愛が全うされるように生きるべきです。神の愛が証しされるために、私たちは義なるキリストが歩まれたように歩まなければなりません。
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