今の時代をイメージして、光か闇かと聞かれたら、どちらでしょうか。また、自分の人生をイメージしたら、光と闇のどちらでしょうか。光をイメージするなら、見通しが立っている、先行きが良いということ、闇をイメージするなら、見通しが立たない、先行きが悪いことを意味するでしょう。
聖書では、光とは神の支配する領域のことを指し、真理や善、正義、いのちなどを意味します。闇とは悪魔が支配する領域のことで、偽りや悪、不義、死などを意味します。
1. 新しい命令と古い命令
愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。(1ヨハネ2:7)
イエス様は弟子たちに、新しい戒めとして「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と命じました。
しかし旧約聖書にも「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ記19:18)という「古い命令」があります。これは、イエス・キリストの新しい命令である「互いに愛し合いなさい」と同じ意味なのです。
2. まことの光と闇
しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。(1ヨハネ2:8、9)
イエス・キリストは「道であり、真理であり、いのち」(ヨハネ14:6)です。不信仰の不義により、死ぬ定めであった私たちは、イエスの身代わりの死によって義とされ、永遠のいのちが与えられる真理の道、まことの光の中を歩き通すことができる者とされました。
旧約聖書の時代、神の民は主の恵みと御力によって敵の支配や攻撃から救われ、光の中に入れられましたが、神の御言葉に不従順し、滅びの闇の中に落ちていきました。
新約時代の私たちは、主キリストの御言葉を聖書から聞き、イエスをキリストと告白して義とされました。主キリストの御力により癒やされ、解放され、罪による死から救われ、義といのちのまことの光の中にいます。
しかし、もしあなたがキリストの御言葉に不従順し、兄弟姉妹であるキリスト者を憎んでいるならば、あなたはまことの光の中にはおらず、まだ不義と死の闇の中にいるのです。
3. 愛する者と憎む者
兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。(1ヨハネ2:10、11)
イエス・キリストの十字架の死により、イエスをキリストと信じる者は、義といのちのまことの光の中に入れられます。そして同国民であるキリスト者を愛する者は、義といのちの中にとどまります。
しかしキリスト者を憎む者は、不義と死の闇の中に入れられて目を見えなくされてしまい、自分がどこへ行くのか知らないので、闇の中を歩くのです。
まとめ
旧約聖書に書かれた古い命令としての神の御言葉はイエス・キリストにより達成され、新約聖書にある新しい命令としてのキリストの御言葉が、私たちに与えられました。
キリストの御言葉により、私たちは義といのちという真理の光の中に招き入れられます。そしてキリストの御言葉に従うことで、光の中にとどまることができます。しかし、キリストの御言葉に従わない者は、不義と死の闇の中にいるのです。
御国の同国民であるキリスト者を愛する者は光の中にいます。しかし、キリスト者を憎む者は闇の中にいて、自分がどこへ行くのか知らないのです。
自分の義といのちのために、隣人を自分のように愛しましょう。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)
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